−日本の鉄道写真館(Gゲージ鉄道模型・風雅松本亭)−
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ベビーロコ?(東京都板橋区・常北交通公園に静態保存)
B1型5号機と6号機(東京都墨田区・東武博物館に静態保存)
新着!
B3型30号機(栃木県佐野市・嘉多山公園に静態保存されているも状態悪し)
B3型34号機(東京都大田区・萩中公園に静態保存)
ED4020型|
ED5010型|
ED5060型|
ED5080型
デハ1|
モニ1473(クハニ2型からの改造車)|
日光軌道線200型
100系|
200系・250系|
300系・350系|
1720型|
1800系
5000系|
6000系|
6050系|
8000系|
9000系|
10000系|
30000系
50000系|
キハ2000型|
ヨ101|
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東武鉄道の車輌
Gゲージ鉄道模型・風雅松本亭(http://g-gauge.world.coocan.jp/)
オーレンシュタイン・ウント・アーサー・コッペル製の機関車です。一説によるとコッペル製の機関車は日本国内に1000輌以上輸入されたようですのでそれほど珍しいものでもないのですが、都内で見られる車輌はそれほど多くありません。まぁ、その辺に免じてご勘弁ください。有田鉄道開業当事からの機関車のようですが、後に東武鉄道の気動車1両と交換されます。東武でこんな小さな機関車を何処で使うのか少々不思議な気もしますが、新高徳機関区にいた記録があるようで、どうやら矢板線か越生線で使うのが前提だったようです。
この機関車は板橋区内、都営地下鉄三田線蓮根駅近くに在る常北交通公園に静態保存されています。説明に拠れば、この機関車では10輌牽引が精一杯だったので、本線上を回送しただけでお蔵入りになったそうです。10輌と言うのが満員のボギー客車を意味するのか、2軸貨車で10輌なのか定かではありませんが、所詮は運転整備重量8トンほどのナローゲージ並の機関車ですから、2軸貨車で10輌の方ではないかと思います。これだと東武鉄道内では入換用にも難がある程度の牽引力でしかありません。結局は早い時期に退役し、東上線のときわ台駅前に「ベビーロコ」と言う名前を付けられて展示されて、それだけに終わっています。
連結器が随分と高い位置に取り付けられていますが、小型機関車に普通のアライアンス式自動連結器を取り付けたので、こんな格好になったようです。大雑把に言うと、現在の連結器の取り付け位置は、機関車のランボードの位置よりもやや高いです。仕方がないので?端梁に鉄板を浮かせて取り付けて、その鉄板に新しく自動連結器が取り付けられています。元々の連結器の位置は、いわゆるナローゲージ的な位置に取り付けてあったようです。
Class B1, No.5 and No.6 steam locomotive of Tobu Ry.'s were manufactured by UK locomotive builder "Beyer Peacock" at 1898. They were manufactured for the opening between Kita-Senju(Tokyo) and Kuki(Saitama) of Tobu Railway, Isesaki line.
1899年(明治32年)の伊勢崎線の北千住(きたせんじゅ)=久喜(くき)間の開業に備えて輸入された車輌で、製造は1898年(明治31年)、製造元はベイヤー・ピーコック、国鉄5500型の同型機です。自社発注機の他に、国鉄から5500型の譲渡を受けた車輌もB1型に含まれます。
東武鉄道は一貫して4-4-0機を多用していたことで有名ですが、最初期からこの傾向はあったようです。もの凄く長大な貨物列車を、もの凄く急な勾配が連続するような路線に走らせる必要が無かったことが4-4-0機の使用を継続した最大の原因じゃ無いかと思いますが、貨物線は概して末端部へ行くと非電化の区間が多いので、その昔に導入した蒸気機関車をそのまま使い続けることが得策であるという判断があったからなのかも知れないです。イギリス製の4-4-0機の活躍が目立つのでアメリカ製の4-4-0機は陰に隠れがちな点はちょっと気に入らないですが、、、。
下の写真の2輌の機関車は、空制以前の原型に近い車輌が5号機で、空制化後の現在的?な車輌が6号機です。どちらも東武博物館に静態保存されている車輌ですが、東向島駅直下に居るのが5号機で、駅前の水戸街道(国道6号線)を挟んで向かい側の屋外に居るのが6号機です。但し、6号機の方は屋外とは言っても伊勢崎線のガードの下なので、丸っきりの雨晒しと言うわけでもありません(風向きによっては多少は濡れますけど)。空制化以前の外観の5号機の方は恐らくは掛け替え可能な電球化以前の方式の前照灯を使う前提を再現したのだと思いますが、前側には前照灯が掛かっていて、テンダ側はランプ掛けだけ残してある辺りは流石というか、なんとも立派な見識です。電球式前照灯を常時装着した状態にしてある6号機との対比の兼ね合いでこうしてあるのでしょうが、流石に物持ちの良い東武鉄道ならでは、時代考証を良く踏まえた展示手法には脱帽させられます。
上の写真の車輌は東武鉄道B1型5号機。2008年(平成20年)8月、東武博物館(東京都墨田区)にて撮影。"
上の写真の車輌は東武鉄道B1型5号機。2008年(平成20年)8月、東武博物館(東京都墨田区)にて撮影。"
上の写真の車輌は東武鉄道B1型6号機。2008年(平成20年)8月、東武博物館(東京都墨田区)にて撮影。"
Class B3, No.30 steam locomotive was manufactured famous UK locomotive builder named Beyer Peacock at 1914. Probably, She is newest UK made steam locomotive in Japan. She has 4-4-0 wheel arrangement.
上の写真の車輌は東武鉄道30号機。2009年(平成21年)7月、栃木県佐野市嘉多山公園にて撮影。
開業当時の東武鉄道は蒸気機関車が客車を引いて営業していましたが、電化後も蒸気機関車は貨物列車用としてかなり遅い時期まで使用されていました。相当に貨物列車の需要の多い鉄道なのに大部分の機関車が4-4-0軸配置のテンダ機ばかりだった理由は定かではありませんが、ネルソンやピーコック製のこの種の機関車を多数抱えていることで有名でした。
この写真のB3型30号機は1914年(大正3年)ベイヤー・ピーコック製の機関車で、東武鉄道としては最新の蒸気機関車です。国鉄5600型とほぼ同型の機関車で、恐らく日本に輸入されたピーコック製の機関車としては最新の、そして恐らくは最後の車輌であるようです。更に、少々珍しいことに、この機関車はいかり肩のベルペアー火室です。ベルペアー火室はアメリカ型の世界ではペンシルヴァニア鉄道の一連の機関車などでそれほど珍しいものではないですが、日本国内に入ってきた機関車としてはごく少数派です。
後述の34号機と同型ですが、保存状態はかなり悪く褒められたモノではありません。多分、東武鉄道が佐野市に対して無償譲渡しているのだと思いますが、タダで貰っているから粗末に扱っているのでしょう。この種の車輌は、毎年1000万円程度は賃貸料を集金するようにでもしない限りは、やがてはスクラップです。この車輌もナンバープレートすらありませんし、ヘッドライトのレンズも残っていません。序でに書くと、車輌の横の立て看板の説明も間違っています。製造元がベーヤピーコックと書いてありますが、こんな機関車製造会社の名前は初めて聞きました。「 Beyer Peacock 」と言う社名ですから、Beyerの部分は「ベーヤー」とか「ベイヤー」、500歩譲って「ベイエル」としかなりません。「べーヤ」と書いたのではBeya、Bejaとか、、、なんだか、書いていて腹が立ってくるなぁ(^^;;)。それでも悪口ばかり書いているのもどうかと思うのでこの車輌の美点を書いておきますが、連結器は両側ともアライアンス式連結器がそのまま残されています。どんなに程度が宜しくとも、34号機の方は住友製らしき連結器に交換されてしまっているのが惜しい処です。
この車輌の保存場所は、栃木県佐野市の嘉多山公園です。喜多山ではなくて「嘉多山(かたやま)」が正解ですので念のため。この辺りの事は有名な「編集長敬白」に同じことが記載されています、、、と言うよりは、34号機の方は我がサイトの重要なリンク先である「線路を探して」の主催者である鈴木光太郎さんから教わりましたが、30号機が佐野市内に保存されている事は「編集長敬白」で知りました。最末期に30号機以下の面々が佐野線の使用されていた事もあって、佐野市内のこの場所に保存されることになったようです。
Class B3, No.34 steam locomotive was manufactured famous UK locomotive builder named Beyer Peacock at 1914. Probably, She is newest UK made steam locomotive in Japan. She has 4-4-0 wheel arrangement.
上の写真の車輌は東武鉄道34号機。2005年(平成17年)12月、東京都大田区萩中公園にて撮影。
前述の30号機と同様に、1914年(大正3年)ベイヤー・ピーコック製の機関車で、東武鉄道としては最新の蒸気機関車です。同じB3型であっても30号機と比べると、保存状態はこちらの34号機の方が遙かに宜しいです。
「東芝戦時型」と呼ばれる凸型の電気機関車で同型車が各地で見受けられた車輌です。遠州鉄道のED212、伊豆箱根鉄道ED32型、ED33型、名古屋鉄道(名鉄)のデキ600型などがこの系列の車輌です。東武鉄道には東芝戦時型機関車がED4010型2輌とED4020型2輌の合計4輌が在籍していました。何分にも路線延長の長い鉄道なので、この種の入換用的な車輌は余り好まれなかったのかもしれません。
製造時期はED4010型が1945年(昭和20年)製で、日本窒素海南島工場向けの車輌が注文流れとなってしまったのを引き取って1946年(昭和21年)に車籍編入したものです。ED4020型が1948年(昭和23年)製で、東武自身が自社発注した車輌のようです。車輌自体は自重が少々違う程度で、その他は両形式とも大差無いようです。どちらも、モーターは110kWの物を4基使用しています(合計440kW)。
日立製、箱型車体の電気機関車です。 形式番号は5010とやや中途半端なのは、この車輌以前に東芝製のED5000型が在籍しているからです。ED5000の方は戦後製の車輌であっても如何にも戦前的な、EF12のような外観であるのに対し、このED5010は妻面が丸みを帯びているからなのか、もう少し近代的な外観です。このED5010型は1957年(昭和32年)から1962年(昭和37年)に掛けて14輌が製造され、後述のED5060型と共に東武の電気機関車としては主力機とも言うべき存在です。
外観上の特徴は車体裾がちょっと内側に入り込んでいる事で、見方によっては初期の東武電車の内側台枠が露出している、あのような形状にも見えます。車体側面には通風口が2ヶ所しかありませんが、これは後期型の特徴です。もっとも、同じED5010型でも、最初期に製造されたED5014以前の車輌のみ、通風口が片側面に4ヶ所設けてあるようです。
デッキの手摺りなどは黄色く塗られていますが、雑誌の写真などを見ると1960年代初頭までに撮影されたものではこのようになっていません。私が確認した範囲では1964年に撮影された写真では、明らかに警戒色らしき色に塗られています。もっとも、雑誌の白黒写真での判断なので、もしかしたら全く違う別の色かもしれませんが。デッキ中央に切れ目が無いのは重連運用が多そうな東武の機関車としては意外な気がしますが、製造時期が一部重複しているED5010型とED5050型はこのような仕様になっています。これ以前のED5000や、これ以後のED5060などは貫通式?になっています。
ED5015の台車の写真です。出力は142kWのモーターを4基装備していますので合計で568kWで、戦後製の東武鉄道の電気機関車としては標準的な数値です。例外的に1台車1モーターのED5050型の出力が660kWであったり、ED4010型、ED4020型などが440kWであったりしますが、戦後製の東武鉄道の電気機関車の出力は568kWに統一されています。
東武博物館(=伊勢崎線東向島駅のガードの直下)に保存されているED5015を俯瞰して撮影した写真です。もうちょっと引きが取れるとありがたいのですが、、、。
ED5015のパンタグラフ周辺の写真です。東武博物館の2階部分から撮影したものですが、お子さん方は実際に動いている車輌(模型の車輌)の方が興味があるのか、こんなに間近で機関車が観察できる場所に寄ってこないので好都合です。
上の写真の車輌は東武鉄道ED5024。1985年(昭和60年)2月、東武鉄道伊勢崎線北千住(きたせんじゅ)=牛田(うしだ)間にて撮影。
後述のED5080型と同一形状、同一仕様の機関車で、1960年(昭和35年)から1966年(昭和41年)に掛けて東芝で製造された機関車です。ED5080を除けば、東武鉄道としては最終・最新の機関車です。
全部で13輌が製造されており、日立製のED5010型(全部で14輌)に次ぐ大勢力でした。
モーターは出力142kWのものを4基使用していますので、出力としては7300系などのロクサン型電車と同様です。電車用の部品を何処かから探して来て調達しているのかもしれません。
2灯式のヘッドライトが余り格好良くありませんが、これは後天的な改造によるもののようです。
貨物営業廃止後、北館林荷扱所に留置されているED5063(手前)とED5083(奥)です。「北館林荷扱所」と言うのは佐野線で館林の次の渡瀬駅の少々佐野寄りに在る貨物駅です。南側を県道の陸橋が跨いでいますので、ご覧のように俯瞰気味に撮影できます。電化区間なので架線が目障りですが、これは止むを得ない処です。
上の写真の車輌は東武鉄道ED5083。1985年(昭和60年)2月、東武鉄道伊勢崎線北千住(きたせんじゅ)=牛田(うしだ)間にて撮影。
1970年(昭和45年)び新東京国際空港公団が東芝に発注して3輌新造した機関車です。その点を除けば前述のED5060型と同一形状、同一仕様の車輌です。成田空港建設のための砕石輸送用に東武線内で使用されていた機関車で、言うなれば「私有機関車」です。後に、砕石輸送の終了に伴い、東武鉄道に車籍が移ります。ED5081、5082、5083の3輌があり、5081と5082は後に三岐鉄道に譲渡されます。
Class DEHA-1, No.5 interurban of Tobu Railway. She has Brill 27MCB? trucks.
上の写真の車輌は東武鉄道デハ1型デハ5号。2008年(平成20年)5月、東武博物館(東京都墨田区)にて撮影。この写真は愚息が撮影してくれました。
電化最初期に、西新井(にしあらい)まで電化した際に8輌製造された車輌で、正面5枚窓、ダブルルーフ、ウェスチングハウス製の電装品、ブリル台車装着、とまぁ、私的には堪えられない車輌です。
デハ5の運転台周辺の写真です。この写真は愚息が撮影してきてくれました。
デハ5のパンタグラフ周辺の写真です。横型碍子が如何にも東武らしくて良い雰囲気を醸し出しています。
上の写真の車輌は東武鉄道モニ1473。2001年(平成13年)8月、東武鉄道西新井工場(にしあらいこうじょう)にて撮影。
電化初期に製造されたクハニ2型を電装し、後に荷物電車に改造、更に除籍後に入換機械として使用されていた車輌です。実際に車輌には「形式:入換機」と記載されています。いわゆる32系の典型的な車輌です。この系列の車輌は大部分が車体更新されていますので、ほぼ原型に近い状態で残存していた貴重な存在でした。たしか、東向島駅高架下の東武博物館に展示してある木造車(デハ1型のデハ5号)も、荷物電車として使用されていた車輌を復元して展示したようです。「昔から東武鉄道は物持ちが良いなぁ」と感心していたのですが、生憎暫く前に解体されてしまったようです。
東武鉄道には純粋な荷物電車はあっても電動貨車はなかったようで、電動貨車と称する荷物電車しかいなかった東急とは少々対照的です。東武鉄道ほどの大鉄道だったら電動貨車が居てもおかしくはないと思うのですが、巨大な鉄道であって貨物輸送も盛んであったために荷物電車はあっても電動貨車はなかったようです。台車は住友金属製のKS31Lと言う、鋳造台枠+外側イコライザの、如何にもインターアーバン的な外観の格好の良いモノを使用しています。
上の写真の車輌は東武鉄道モニ1473。2001年(平成13年)8月、東武鉄道西新井工場(にしあらいこうじょう)にて撮影。
1枚目の写真とは反対側(浅草側)の妻面。ご覧の通り、こちらは貫通路がありますが、元来が片運転台だったクハニを改造したために両端の妻板で外観形状が揃わなかったようです。同じモニ1470型でもモハを出自とするモニ1471とモニ1472は、両妻面とも非貫通で前後が揃っていたようです。
日光市内を走っていた日光軌道線用の連接車です。普通の路面電車的な2車体連接車と言うと札幌市電のA830型などを思い浮かべますが、札幌の車輌が45kWのモーターを3基装備して車輌重量が25tであるのに対し、こちらの日光軌道線200型は60kWのモーターを4基装備して車輌重量が26tなのでかなり性能差があります。但し、日光軌道線は50‰を超える勾配がある登山電車そのもののような路線なので、その点を勘案すれば同程度の機能と言えます。
外観は湘南顔的で、横浜市電の1150型・横浜市電の1500型に類似しています。実際に、横浜市電の1150型を作ったメーカーの中には、日光軌道線200型の製造にも拘わった宇都宮車輌(現在の富士重工業)が名前を連ねています。連接車なので2軸台車を3組持っているのですが、3組ともKS40と言う住友金属製のブリル風台車を履いています。
上の写真の車輌は東武鉄道日光軌道線200型203号。2008年(平成20年)5月、東武博物館(東京都墨田区)にて撮影。この写真は愚息が撮影して来てくれました。
上の写真とは反対側から撮影した203号です。右端にちょっと見えているのは、無惨にも半分にちょん切られてしまったデハ1720です。
200型の車内です。東武博物館の屋外に展示されている203号の車内ですが、位置関係としては東向島駅方(東武博物館の入り口に近い方)を向いて撮影しています。左端の掴み棒の処の窓の上部に鎧戸がありますが、これ、冷房の吹き出し口です。この場所に据え付け後に装備されたものなので現役時代とは無関係ですが、日光軌道線の車輌の中で冷房化されたのはこの車輌だけです。
200型の運転台です。計器らしいものと言えば圧力計だけですから随分と簡単なものですが、これさえあれば空気ブレーキ装備の車輌の運転には充分であるとも言えますね。位置関係としては、上の車内の写真とは反対側の、東武博物館の入り口から遠い方を向いて撮影しています。
日光線・鬼怒川線用の特急車1720型の代替として製造された系列で「スペーシア」の愛称があります。日光線へ入る列車が「けごん」、日光線の下今市から分岐して鬼怒川線に入る列車が「きぬ」「きぬがわ」となります。案内放送などでは「特急スペーシアけごん」などと案内されています。「けごん」とは有名な華厳の滝や、仏教の一宗派である華厳宗の意味です。
編成は全電動車の6輌編成です。浅草寄りの100-1はいわゆる私鉄としては恐らく唯一の全個室車輌で、定員4人の個室が6室あり、この車輌が6号車です。日光・鬼怒川温泉寄りが1号車となります。全室個室の100-1はJR線内へ乗り入れた際にはグリーン車として取り扱われます。
個室内部の写真です。2人掛けの座席が2組向かい合った4人個室となっていますので、大人の定員は4人です。
但し、これは大人だけの場合で、乗客の中に子供が含まれたりすれば確か6人くらいは乗ることができます。この件、決して裏技とかではなくて、駅の出札口に掲示されていることですので念のため。
座席の幅自体が相当に広い上に、2人分の座席の間に収納式のアームレストがありますので、相当にゆったりしています。個室料金は乗車距離に拘わらず1室¥3600ですから4人で乗ると1人¥900で済みます。
個室付き車輌の通路の写真です。突き当たりは乗務員室です。この車輌は浅草寄りに連結されており、この写真は浅草方を向いた状態で撮影しています。いわゆる海側に通路が在り、山側に個室が在る、、、と言う設計です。
天井照明は蛍光灯ですが、壁面のそれは白熱灯による間接照明のようです。もしかしたら電球色蛍光灯かも? この写真の壁面の照明器具とほぼ同じ形状の照明器具が、個室の内側の出入り口上部にも設置されています。
伊勢崎線用の急行車1800系の置き換え用であり、同時に特急に格上げするために製造された車輌です。この系列が出揃った時点で伊勢崎線では急行は廃止され、有料の優等列車はこの200系・250系を使用して格下げされた特急「りょうもう」だけとなりました。「りょうもう」と言う名前は1800系の急行時代のものを踏襲しています。全M6連固定編成です。
座席間隔は、体感的にはJR東の普通列車用サロと同等です。居住性の点でも200系の各車輌にフットレストはあってもJRのサロにはそれが無いですが、反面、座席のリクライニング量はJRのサロの方が大きいようなので痛み分けと言うか、似たり寄ったりで勝負付かずですね。JRのサロには2人掛け座席の間に仕切りの肘掛がありますが、200系の方はそれはありません。
使用されている区間は伊勢崎線の浅草=太田(おおた)間、太田より先は桐生線に入り終点の赤城までで、これが基本となり一番運転本数の多い運転形態です。この他に太田から桐生線には向かわずにそのまま伊勢崎線の終点である伊勢崎(いせさき)まで向かう列車、太田の少々手前である館林(たてばやし)から佐野線に入り葛生(くずう)まで行く列車、太田折り返しとなる列車などがあります。
因みに、浅草=赤城間115kmを「りょうもう」は1時間45分で走って¥2160ですが、走行区間が類似しているJRの特急「ウィークエンドあかぎ」では上野=前橋間111.2kmを1時間40分で走って¥3700ですから東武の圧勝です。
上の写真の車輌は東武鉄道モハ209-1、2007年(平成19年)5月、東武鉄道伊勢崎線鐘ヶ淵(かねがふち)駅にて撮影。
200-1型は浅草寄りの先頭車で、6号車に相当します。乗客用扉は運転台直後(=浅草方)に1箇所のみです。編成中、唯一の喫煙車です。200系の先頭車はパンタグラフを装備しませんので、後述の200-6型と同様にこの車輌もパンタ無しです。
上の写真の車輌は東武鉄道モハ204-2、2006年(平成18年)4月、東武鉄道桐生線赤城(あかぎ)駅にて撮影。
200-2型は浅草寄りから2輌目の車輌で、5号車に相当します。乗客用扉は赤城・伊勢崎方に1箇所のみなので、6号車と5号車の扉間隔は大雑把に40m近く開いているようになります。久喜駅と東武動物公園駅で乗客用扉を使用するのはこの車輌と後述の2号車(200-5型)のみです。パンタグラフは浅草方に1基のみ装備します。
上の写真の車輌は東武鉄道モハ204-3、2006年(平成18年)4月、東武鉄道桐生線赤城(あかぎ)駅にて撮影。
200-3型は浅草方から3輌目の車輌で、4号車に相当します。乗客用扉はありません。パンタグラフは浅草方に1基のみ装備します。
上の写真の車輌は東武鉄道モハ204-4、2006年(平成18年)4月、東武鉄道桐生線赤城(あかぎ)駅にて撮影。
200-4型は赤城方・伊勢崎から3輌目の車輌で、3号車に相当します。乗客用扉は浅草方に1箇所です。中間車では唯一パンタグラフを持たない車輌です。車椅子対応車輌なんですが、どう言う構造になっているのかと言うと、普通の座席は2+2になっているのに対して、車椅子を固定する部分は窓寄りのみの1+1となり、通路側に車椅子を固定する構造です。以前は車椅子対応の編成は207編成以降のみだったようですが、現在は全編成が車椅子対応となっているようです。
上の写真の車輌は東武鉄道モハ204-5、2006年(平成18年)4月、東武鉄道桐生線赤城(あかぎ)駅にて撮影。
200-5型は赤城方・伊勢崎から2輌目の車輌で、2号車に相当します。乗客用扉は浅草方に1箇所で、パンタグラフは赤城・伊勢崎方に1基装備します。5号車となる200-2型を方向転換したような車輌です。
上の写真の車輌は東武鉄道モハ204-6、2006年(平成18年)4月、東武鉄道桐生線赤城(あかぎ)駅にて撮影。
200-6型は赤城・伊勢崎寄りの先頭車で、1号車に相当します。200系の先頭車はパンタグラフを装備しませんので、200-1型と同様にこの車輌もパンタ無しです。車体形状としては200-1型を方向転換したような状態なので、この車輌も運転台直後に乗客用扉があります。
200系の車内の写真です。1800系時代に比べれば、かなり接客設備の水準は向上しています。
200系の履くFS370台車です。200系の台車や電装品などは、廃車となった1700型や1720型などから転用したものです。
後述の伊勢崎線用の急行車1800系が200系の導入で余剰になったために、日光線系統用に転用した車輌です。
6輌編成が300系、4輌編成は350系です。両者の違いは基本的には編成輌数の違いのみです。但し、先頭車が全部クハ、中間車が全部モハになっている関係から6輌編成と4輌編成ではMT比が異なります。
車輌の内容としては決して悪い車輌ではありませんが、何分にも単なる転換クロスシート(回転クロスシート?)なので、「しもつけ」「きりふり」などの廉価版特急に使用されています。実態は快速用の6050系の高級仕様と言った処でしょうか。
DRC(デラックス・ロマンス・カー)と呼ばれた特急車です。編成は全M6連固定編成です。車体外観は多分に国鉄151系を意識しているのだとは思いますが、軽快で良い外観だと思います。小窓がびっしりと並ぶのは東武の優等車の伝統でしょうか。
車輌の形式は全部の車輌がモハ1720で、末尾の数字が、浅草方から1,2、と振られており、日光・鬼怒川方が6となります。下2桁目の数字は編成番号です。例えば第1編成であれば浅草方からモハ1721、モハ1722、となり、日光・鬼怒川方の先頭車はモハ1726となるわけです。
上の写真の車輌はモハ1720型。1989年(平成元年)3月、東武鉄道伊勢崎線北千住(きたせんじゅ)=牛田間(うしだ)にて撮影。浅草方に連結される「クモハ」で車番が17*1となる車輌、6号車です。連結面寄りにパンタグラフを1基装備します。
上の写真の車輌はモハ1720型。1989年(平成元年)3月、東武鉄道伊勢崎線北千住(きたせんじゅ)=牛田間(うしだ)にて撮影。浅草方から2輌目に連結される車輌で車番が17*2となる車輌、5号車です。パンタグラフはありません。
車番が17*2となる車輌と17*5となる車輌は、実は同一の車種で、それぞれ5号車と2号車になります。ビュッフェ付きの「モハシ」相当の車輌です。扉の横の、窓が無い箇所が調理室で、スハニ35のような雰囲気になっています。上の写真で右が浅草方、左が日光・鬼怒川方です。
上の写真の車輌はモハ1720型。1989年(平成元年)3月、東武鉄道伊勢崎線北千住(きたせんじゅ)=牛田間(うしだ)にて撮影。浅草方から3輌目に連結される車輌で車番が17*3となる車輌、4号車です。パンタグラフは無く、乗降用扉もありません。1720型で乗降用扉を持たない車輌は、この車種のみです。上の写真で右が浅草方、左が日光・鬼怒川方です。右端の大き目の窓が並んでいる箇所が定員8名のサロン室です。
上の写真の車輌はモハ1720型。1989年(平成元年)3月、東武鉄道伊勢崎線北千住(きたせんじゅ)=牛田間(うしだ)にて撮影。日光・鬼怒川方から2輌目に連結され車番が17*5となる車輌、2号車です。パンタグラフはありません。
車番が17*5となる車輌と17*2となる車輌は、実は同一の車種で、それぞれ2号車と5号車になります。ビュッフェ付きの「モハシ」相当の車輌です。扉の横の、窓が3つ連続する箇所がビュッフェです。上の写真で右が浅草方、左が鬼怒川方です。
上の写真の車輌はモハ1720型。1989年(平成元年)3月、東武鉄道伊勢崎線北千住(きたせんじゅ)=牛田間(うしだ)にて撮影。日光・鬼怒川方に連結される「クモハ」で車番が17*6となる車輌、1号車です。連結面寄りにパンタグラフを1基装備します。
モハ1720型最前部の写真です。
1969年(昭和44年)から1987年(昭和62年)に掛けて製造された伊勢崎線用の急行「りょうもう」号用の車輌です。当初は両端のクハの間にモハを2輌挟んだ4輌編成でしたが、後にモハ+サハを増結して6連で使用されます。実際、この列車は何時見てもかなり乗客が多いと言う印象があります。
通勤用に改造された一部の車輌を除き、日光線・鬼怒川線の廉価版特急用300系・350系に改造されています。
かつてのロクサン型を基本とした7800系などを車体更新した系列で、20m車体で4扉の車輌です。ちょっと見ただけでは8000系と見分けがつきません。冷房は取り付けてありますし、モハに乗っていても耳を塞いでいる限りは釣り掛け式なのかどうかは判然としません。折角釣り掛け式の電車に乗っても耳を塞いだのでは少々勿体無いですが、、、。流石に加速は宜しくないようですが、閑散線区で使っている分には全く問題無く使用できるようです。極めて厳密に区分して行くと5000系、5500系、5050系、5550系、5070系に5区分できるようですが、通常は5000系・5050系・5070系の3区分とされるようです。
5000系・5500系は1979年(昭和54年)に2編成づつ試作的に車体更新された車輌です。上り方(浅草・池袋方)からモハ5100+サハ5200+モハ5300+クハ5400の貫通4連が5000系、モハ5500+クハ5600の2連が5500系です。「モハ5500+クハ5600の2連」と言うのは、東武の電車は中間電動車と制御電動車の記号を区別していませんから、国鉄風?に表現すればクモハ5500+クハ5600となります。3系列に区分する場合は5000系と5500系を総称して5000系と呼びます。
5050系・5550系は1980年(昭和55年)に登場した量産改造車?で、編成は上り方(浅草・池袋方)からクハ5150+モハ5250+モハ5350+クハ5450の4連貫通編成と、モハ5550+クハ5650の2連編成があります。3系列に区分する場合は5050系・5550系を総称して5050系と呼びます。
少々異質なのは5070系で、基本的には5050系・5550系と同じ車輌ですが、クハ5170+モハ5270+モハ5370+サハ5470+モハ5570+クハ5670の6連貫通固定編成です。5070系には2連や4連の編成はなく、この編成の組み方は8000系の6連貫通車と同じです。
上の写真の車輌は東武鉄道クハ5162他4連。2005年(平成17年)3月、東武鉄道宇都宮線おもちゃのまち駅にて撮影。
上の写真の車輌は東武鉄道クハ5455他4連。2005年(平成17年)3月、東武鉄道宇都宮線新栃木(しんとちぎ)駅にて撮影。
上の写真の車輌は東武鉄道クハ5461他4連。2005年(平成17年)3月、東武鉄道宇都宮線新栃木(しんとちぎ)駅にて撮影。
5000系の履いているTRS52台車です。ちょっと見ると国鉄のDT16のように見えなくもありません。厳密には型番末尾にTBだとかMBだとか、色々と記号が付いて区別されるようですが、基本的な形状は同じです。乗り心地は可もなく不可もなく、この種の釣り掛け式の旧型電車用としてはごく普通、よーするに、大した乗り心地ではありません。
熊谷=妻沼(めぬま)間僅か10kmほどの非電化路線でした。正式名称は「熊谷線」ですが、地元では単に「東武線」とだけ呼ぶ人が多かったように記憶しています。元来は利根川を渡って対岸の小泉線と連絡し、軍需産業の最たるものであった中島飛行機への工員輸送を前提として建設された路線です。
熊谷駅は秩父鉄道の駅に居候していました。秩父鉄道の熊谷駅は、島式ホーム1本で駅本屋寄りの線路は中央で途切れており、東武熊谷線の気動車と羽生行きの秩父鉄道の電車が車止めを挟んで、同じ線路上の同じホームに仲良く向かい合っていました。
熊谷=上熊谷間はいわゆる双単線で、高崎線寄りを東武鉄道が使用し、反対側を秩父鉄道が使用していました。上熊谷駅も島式ホーム1本で、時間帯によっては同じ方向に妻沼行きの熊谷線の気動車と、三峰口行きの秩父鉄道の電車が同一方向に向かって走り出す光景も見受けられました。
上熊谷には国鉄の駅は在りませんが、踏み切りは国鉄・東武鉄道・秩父鉄道が共同使用?になっていました。従って、この駅の踏み切りは国鉄の電車が来れば当然閉まりますが、東武鉄道の気動車がやって来ても勿論閉まります。国鉄の方は編成は長くても通過するだけですが、熊谷線と秩父鉄道の方は急行を除けば一旦この駅に止まるわけで、必要以上に待たされたような記憶があります。
キハ2000型は熊谷線の無煙化の為に、1954年(昭和29年)に東急車輛で製造した液体式の気動車で、総数は3輌です。熊谷線廃線後は全車輌が廃車されて、現役で運転されている車輌はありません。加越能鉄道にもキハ120型と言う同型車が2輌おり、こちらは鉄道線の廃止に伴って関東鉄道に引き取られ、鹿島鉄道のキハ431・キハ432となっています。各部の寸法などは若干違うようですが、ちょっと見た限りでは、ほぼ同一の形式に見えます。
東武鉄道の路線の中で最後まで電化されずに残ったのは熊谷線と矢板線の2路線ですが、矢板線の方は無煙化されずに蒸気機関車が牽引する列車が走る状態のまま廃止されますから、曲がりなりにも近代化されたのは熊谷線の方だけと言うことです。
車輛自体は16m級の車体で120HPのエンジンですから大した動力性能ではありません。この写真では判然としませんが台車はTS102と言う板台枠の台車で、早い話がTR26みたいな代物です。鹿島鉄道の同型車に乗った限りでは、相当に凄まじい乗り心地で楽しめます。
しかし、全線10kmの路線とは言え、たった3輌で賄えてしまった辺りが当時の熊谷線の、矢板線並みの輸送需要の貧弱さを物語っています。予定通りに利根川を渡って小泉線との連絡が果たせていれば、また、違った展開ももあったのかも知れません。
左側の運転台の後に在る塔のような建築物は蒸気機関車用の水タンクです。勿論、この写真を撮影した時点では使用していませんが、矢板線と熊谷線が、東武鉄道の中では一番遅くまで蒸気機関車で旅客営業をしていた路線でした。
ちょっと判りにくいですが、妻沼駅に停車中のキハ2000型全車輌。右側の2連は手前がキハ2003、奥がキハ2001。左の車庫の建物の辺りに隠れている車輌がキハ2002です。
キハ2000が履いているTS102台車です。「なんだ、この型番は?」と言われそうですが、東急車輛の台車は基本的にはYS***とかTS***と言う型番でして、住友金属の台車が全部FS***、FS***になるのと同じ理屈です。要するにTR26とか、TR29の仲間です。凄まじい乗り心地の楽しい台車です。加越能鉄道出身の、鹿島鉄道キハ430型もこの台車を履いています。
上の写真の車輌は東武鉄道ヨ102。1983年(昭和58年)2月、東武鉄道伊勢崎線羽生(はにゅう)駅にて撮影。
東武鉄道は貨物列車が多く、専用の車掌車も多数保有していました。3種類あるヨの中では上の写真のヨ101型が最多数派だったそうです。この辺りの説明は全てh.akutsuさんの「東高円寺写真館」からの受け売りです。私がこの車輌を見た頃には全て国鉄コンテナと同様の薄緑色に塗られていて、「へぇ〜」と思って感心して眺めた記憶があります。
上の写真と全く同じ車輌ですが、偶然にも上の写真を撮影した6年後に、全く違う場所で撮影したものです。
「全く違う場所」とは言っても、どちらも同じ伊勢崎線の沿線ではありますから、執念深く待っていればやがてやって来ることには違いないですが、、、。同じ車輌を撮影していたとは、古い写真をスキャンしていてはじめて気が付きました。撮影以来、ざっと20年ぶりのことです。ヒサシが無いのが伊勢崎・日光・鬼怒川方、右のヒサシが有るのが浅草方です。
「矢板」と聞くと矢板事故で廃車になった国鉄のサハ15(=旧サロ37)のことを思い出すのは私が年寄りの証拠ですが、東武鉄道には鬼怒川線の新高徳(しんたかとく)駅からJR東北本線の矢板(やいた)駅までを結んでいた、超赤字ローカル線である矢板線が在りました。
戦前は一貫して1日に8往復程度は運転されていたようですが、1959年(昭和34年)に廃止される頃には1日に3往復の直通と区間列車が1本、合計4本しか運行されず、しかもどの列車にも乗客がパラパラとしか乗車していないと言う惨状であったようです。
元々は鬼怒川線の母体であった下野電気鉄道が非電化・軌間762mmの支線として建設したものですが、後には1067mm軌間に改軌したものです。この辺りまでは下野電気鉄道時代の話で、1943年(昭和18年)には下野電気鉄道自体が東武鉄道に吸収合併されてしまいます。吸収合併とは言っても、線路形状が元来東武鉄道の支線のようなものでしたから、戦時中という時代背景を考えれば、ある程度は自然の成り行きと言うこともできるでしょう。
合併後も妻沼線(熊谷線)と同様に電化されないままで細々と運行が続けられます。妻沼線の方はそれでも廃止時期が遅かったので専用にキハ2000型と言う気動車が新車で導入されますが、矢板線の方は貨物機上がりの4-4-0機が電車改造客車や数輌の貨車を混えたミキストを牽引して走るという運行体制が廃止まで続けられていたようです。
矢板線の各駅の駅名などは下記の通りです。通算距離、所要時間などは1942年(昭和17年)現在のもので、新高徳から矢板に向かう始発列車を基準としています。
| 駅名(読み方) | 通算距離 | 通算所要時間 |
|---|---|---|
| 新高徳(しんたかとく) | 0.0km | 0:00 |
| 西船生(にしふにゅう) | 4.6km | 0:08 |
| 船生(ふにゅう) | 7.8km | 0:16 |
| 長峰(ながみね) | 8.3km | 0:17? |
| 天頂(てんちょう) | 9.9km | 0:21 |
| 芦場(よしば) | 11.1km | 0:26 |
| 玉生(たまにゅう) | 14.0km | 0:38 |
| 柄堀(からほり) | 17.0km | 0:44 |
| 幸岡(こうおか) | 20.5km | 0:51 |
| 矢板(やいた) | 23.5km | 0:55 |
この中で判然としないのは長峰駅の存在で船生(ふにゅう)駅からの駅間距離は500mに過ぎません。他の駅よりも開業が遅れているようでもあり、文献によってはこの駅を省略している場合もあります。どうやらこの駅は貨物駅(と言うか荷扱処?)だったようです。運行本数は戦前は一貫して1日に8往復程度、所要時間は50分程度だったようです。なお、長峰駅の件に関しては我がサイトの重要なリンク先である「鉄路八景」の主催者であるせめんとさんにご教示いただきました。記して謝意を表します。
現在の新高徳駅の写真です。写真の右奥が新藤原・会津高原方、手前左が浅草方です。1面2線の島式ホームに側線が1本あるだけの小さな駅ですが、下今市で日光線から分岐して最初に特急が停車する駅で、駅員さんは常駐しているようです。
決して大きい駅ではありませんが周囲には日光ウエスタン村などのテーマパークも在り、乗降客もそれなりに在るようです。下今市=新高徳間には大谷向、大桑などの駅も在りますが、それらに比べれば明らかに新高徳駅の方が需要は大きいようです。但し、駅前にはコンビニエンスストアも何もありませんので、随分と殺風景な駅前です。それでもこの駅からは東京都心の浅草駅まで直通する列車が頻繁に運転されているのですから、同じ日光市内の路線とはいえJRの日光線などよりは遙かに先進的?で交通至便な駅と言えます。
新高徳駅のホームから新藤原・会津高原方を望んだ写真です。進入してくる列車は下今市行きの普通列車で、6050系の2連です。左端の側線は余り使った様子がありません。この側線から本線に入るには乗り越しポイントで合流せざるを得ないようで、恐らくは保線用などに使用されているようです。
ホーム壁のようなものが線路の横に残存?していますので、これが矢板線が在った当時の貨物ホームの残骸かもしれません。矢板線の乗客の乗り降りは、鬼怒川線のホームを共用していたようです。1日に8往復とか3往復とかの本数では専用のホームを用意するまでのことも無いでしょう。
新高徳駅を背に、矢板/下今市方を望んだ写真です。画面左端に止まっているバスは矢板線の代替バスと言うか、藤田合同バスと言う会社の路線バスで、方向幕の行き先表示や経由地表示を見る限りでは、矢板線の代替路線のようです。そうは言っても矢板線自体が会津西街道に沿って敷設されていましたから、何も考えずに街道筋に路線バスを走らせれば、自動的に代替バスのようになってしまいます。このバス会社は、矢板市内に本拠を有する藤田合同タクシーと言う会社が母体のようです。タクシー会社自体にしたところで保有する車輌数が20輌に満たないような会社ですので、決して大きな会社ではありません。
鬼怒川線は新高徳駅を出ると急カーブで右に曲がり鬼怒川の対岸に渡り、会津西街道沿いに下今市に向かいます。矢板線は緩く左に曲がり鬼怒川を渡らずに、日光北街道沿いに進路を取ります。
新高徳駅のホームから下今市方を望んだ写真です。写真左端に写りこんでしまっている灰色の構造物少々目障りですが、これは跨線橋の脚部です。ご覧の通り、鬼怒川線はかなり急な勾配を大きく曲がりながら鬼怒川の鉄橋に向かいます。駅を出てから200mか300mか、その程度で鬼怒川鉄橋を渡ります。速度制限が25km/hと表示されているところからも、この箇所は結構な難所であることはお判りいただけるかと思います。
速度制限標識の奥に金網で囲われた場所が在りますが、この辺りが新高徳機関区の跡地ではないかと思います。
矢板線の代替バスと言うか、新高徳駅から日光北街道を経由してJR矢板駅へ向かう路線バス。藤田合同バス、と言うバス会社が営業しています。新高徳駅から矢板駅までの所要時間は、駅に掲示されている時刻表に拠ればノンストップ便で42分です。従って矢板線が運行されていた当時の列車よりも、所要時間は若干短いと言うことになります。
矢板線が運行されていた頃には1日に3本しか運行されていませんでしたが、この藤田合同のバスはちょっとびっくり、平日11本ほど運転されていますから、ざっと4倍増です。それと言うのも、途中の玉生(たまにゅう)駅付近には塩谷町の町役場が在るので、日光北街道沿線としてはちょっとした政治的な中心地になっているからです。もっとも、民家が多そうなのは矢板駅に近い方面が中心で、新高徳方とはかなり乗客数に差が付きそうです。仮に矢板線が延命できたとしても東武鉄道としては離れ小島になってしまう矢板寄りを残して部分廃止、やがては残存区間も廃止という運命を辿りそうである事は十分に予想が付きます。
多いとは言えないまでもそれなりの需要はあったとしても、それにも拘らず1日に3往復しか列車が来ないと言う不便さから乗客に見放されたと言うのが、矢板線の命脈が断たれた直接の原因ではなかったかと思われます。
大きく分ければ東上線系統と、伊勢崎線・日光線系統の2系統になります。両系統は、元来別の会社だったこともあって線路が繋がっていません。その為に、車輌を相互往来させる場合は、東上線の寄居(よりい)と、伊勢崎線の羽生(はにゅう)の間を、秩父鉄道経由で回送します。
東上線系統には本線格で池袋(いけぶくろ)=寄居間の東上線と、途中駅の坂戸(さかど)から分岐して越生(おごせ)へ向かう越生線の2路線があります。東上線自体は単純に1本の路線ですが、池袋=小川町(おがわまち)間と、小川町=寄居間では輸送需要に大きな隔たりがあるために、それぞれ全く独立して運転しています。現在では池袋=小川町=寄居間を直通する列車は無いようです。
上述の2路線以外は、全てが伊勢崎線・日光線系統と言うことになりますが、伊勢崎線・日光線系統は徹底した都心志向?で、浅草(あさくさ)を根元にして東武動物公園で2つの大きな幹に別れ、それより先は千手観音のように細い線路に分岐して行きます。こちらは日光・鬼怒川などの観光地が控えていることもあって、有料特急が頻繁に運転されています。
有料の優等列車は伊勢崎線・日光線系統でのみ運行されており、東上線系統には、座席定員制の通勤ライナーが走っているのみです。伊勢崎線系統の特急は200系・250系を使用した「りょうもう」であり、日光線系統の特急は100系を使用した「けごん」「きぬ」です。「けごん」は東武日光へ向かう列車ですが、「きぬ」の方は途中の下今市(しもいまいち)から鬼怒川線へ分岐して行く路線です。以前は300系・350系を使用した急行「しもつけ」「きりふり」「南会津」などが運転されていたのですが、現在では有料急行の定期運用は無いようです。東上線も、そこそこの路線延長はあるのだから使い古しの300系・350系でもいいから有料特急を走らせて集金の足しにすれば宜しかろうと思うのですが、、、。
東上線系統は東京メトロ有楽町線と相互乗り入れをしており、伊勢崎線・日光線系統は同じく東京メトロ半蔵門線・日比谷線と相互乗り入れをしています。但し、どちらも乗り入れ区間は始発駅からではなくて、途中駅からの乗り入れになるので始発駅周辺での輸送力確保のために余計な気遣いをしなければならないと言う厄介さが伴います。
日光線の支線である鬼怒川線は、そのまま走り続けると野岩鉄道を経由して会津鉄道線に乗り入れて行きます。野岩鉄道は全線電化ですが、大部分が非電化である会津鉄道も一部区間のみ電化されており3社間での相互乗り入れが行われています。この3社乗り入れに使用される車輌は快速用の6050系で、野岩鉄道も会津鉄道も同使用の車輌を保有しており、プール運用となっています。
これ以外に、片乗り入れとしては寄居(よりい)駅から秩父鉄道に乗り入れる運用があったり、浅草から伊勢崎線・桐生線経由で赤城(あかぎ)駅から上毛電鉄に乗り入れて中央前橋まで行く夜行直通列車、なんてのもあったようですが、現在はこの種の片乗り入れは一切行われていません。
| 路線名 | 駅名 | 読み方 | 乗車時 | 降車時 | 調査日 |
|---|---|---|---|---|---|
| 野田線 | 江戸川台 | えどがわだい | 江戸川台 | 江台 | 2005.7.3. |
| 野田線 | 初石 | はついし | 初石 | 初石 | 2005.7.3. |
| 野田線 | 柏 | かしわ | 柏 | TB柏 | 2005.7.3. |
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