ー日本の鉄道写真館ー
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110|
150・いわゆる1号機関車|
1290・いわゆる「善光」号
2120・いわゆるB6|
2850型・実は伊賀鉄道からの引き継ぎ車
5500|
7100・弁慶号|
8620|
2代目9600
C11|
C12|
C50|
C51|
C58|
D51|
E10
AB10・EB10|
ED16|
ED17|
ED40|
ED91
EF14・EF52・EF53・EF54・EF59|
EF62・EF63
DE10|
DD13|
DD51|
DD53
クモハ12|
101系|
205系1000番代と205系初期車|
301系
キハ41000|
キハ37
オヌ33|
ナヌ32|
マニ30|
ヤ250|
ヤ550|
コヤ90|
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日本国有鉄道の車輌
Gゲージ鉄道模型・風雅松本亭(http://g-gauge.world.coocan.jp/)
Class 110 of Japanese National Ry., manufactured by Yorkshire Engine of U.K. in 1872. She has 2-4-0 wheel arrangement.
1872年(明治5年)に新橋=横浜間に日本最初の鉄道が開業した際にイギリスより輸入された機関車5形式10輌の内の1輌で、10号機関車に相当します。後に3号機関車と改名されましたが、一般的には「3号」または「110型」の方が馴染みが深いようです。製造はヨークシャー・エンジン社です。上述の、最初期に輸入された機関車のうちで、ヨークシャー・エンジンの製品はこの1輌のみです。
ボイラーの片側にビニールシートが掛けられているのは、以前に大宮工場だったかで保管されていた時期に、教材用としてボイラの一部が切開されているからです。切開したままの状態で屋外保存するためにビニールシートを掛けっ放しにしておこうと言うのも随分と横着な話で、いささか感心できません。早く、元に戻せばいいのにね。
Class 150 of Japanese National Ry., manufactured by Vulcan Foundry of U.K. in 1871. She has 2-4-0 wheel arrangement. She is a first locomotive of Japanese railroad.
有名な1号機関車です。110型と同様に1872年(明治5年)に新橋=横浜間に日本最初の鉄道が開業した際にイギリスより輸入された機関車5形式10輌の内の1輌で、1871年(明治4年)にヴァルカン・ファンドリー社で製造された機関車で、前輪が大きいために判りにくいですが2-4-0の車軸配置を持ちます。
余り調子の良い車輌では無かったようで、1911年(明治44年)に開業準備をしていた段階の島原鉄道に譲渡されますが、後に鉄道開業50周年だかの企画が立った際、1930年(昭和5年)に島原鉄道から鉄道省が回収します。島原鉄道側としては運転整備重量がたった23tしかない弱小機関車ながら開業時の苦楽を共にしたこの機関車に愛着はあったようで、社長さんの筆になる「惜別感無量」と言う直筆銘板が片側の水タンクに張り付けられ、現在でも残存しています。多分、鉄道省側が許認可権限をちらつかせて脅迫して強奪同然にA8系600型1輌との物々交換を受け入れさせて現在に至るようです。もっとも、A8系の車輌はどれも比較的小型軽量な割りには力も強く払い下げを受けた各私鉄には好感を以て受け入れられているようですから、鉄道省側にも国家権力に拠る横暴な真似をした割には多少は心の痛みは感じていたようですし、島原鉄道側にしてもそれ程割りの悪い取り引きでは無かったようです。
しかし、普通はこう言う企画を立案したならば、交換用に新車を1輌用意してお願いしに行くのが当然だと思うのですが、中古の機関車を押し付ければ相手のお宝を奪い取ってくることが出来るわけですから国営鉄道というのは随分と気楽で簡単な商売です。次に生まれ変わった時には、私は鉄道院か鉄道省に就職してやろうと思っています。
ご覧の通り、古い駅舎を模した場所に展示されています。右端に写っている人物は陸蒸気を見物に来たらしきマネキンです。駅のホームに横付けされたような状況で展示されているのは気が利いていますが、生憎反対側の足回りは観察しにくくなってしまいます。
1号機関車と一緒に展示されているマッチ箱客車のレプリカです。あくまでもレプリカですから歴史的な価値は1号機関車とは比べるべくもありませんが、この車輌はかなりの力作です。松葉スポーク車輪ではなくて、単なるプレート車輪を履いている辺りは、、、この組み合わせで正解なのかなぁ?。
ご参考までに、「新橋=横浜間に日本最初の鉄道が開業した際にイギリスより輸入された機関車5形式10輌」の内訳は次の通りです。
Class 1290 of Japanese National Ry., manufactured by Manning Wardle of Leeds, U.K. in 1881. She has 0-6-0 wheel arrangement.
1881年(明治14年)にマンニング・ワードルで製造された小型のCタンク機で、元々は日本鉄道の第1号機関車です。日本では少数派ですが内側シリンダの機関車で、元来工事用として導入され、その後は入換用として使用されたようです。
「善光」と言う名前が付けられているのは、荒川沿いの善光寺と言う寺院の近くの船着場でこの機関車が陸揚げされたから、、、とまぁ、この話は有名な逸話なので、そこら中のサイトに記載されているようです。でもって、これで話を終わらせてしまったら安直に過ぎますので、その「善光寺」と言う寺院が何処にあるのかと言う話をします。実はかなり呆気なく判ってしまう場所でして、JR東北本線の東京都=埼玉県の境い目の荒川鉄橋の横に善光寺と言う寺院が在ります。どうやらこの場所で水揚げされたようです。
地図で見ると善光寺と言う寺院は東北本線の敷地からちょっと離れていて、更に敷地形状が異様に整然とした長方形?で少々不自然です。
以下、私の想像ですが、
1・当時は日本鉄道の線路建設予定地の辺りまで善光寺の敷地で、後に色々と切り売りした。
2・埼玉県・群馬県内の線路工事を進めるためには早い時期に工事用の機関車が必要だった。
と言った事情から、善光寺の当時のご住職の好意で、善光寺の船着場を使って陸揚げし、更には用地買収や建設工事に関して何かと配慮してくれたことに対しての返礼?として「善光」と命名したのではないかと思います。外していたら見逃してください。
明治時代を代表する重貨物用のタンク機で、軸配置は日本の機関車としてはやや珍しい(0-6-2)です。1890年度(明治23年度)から1905年度(明治38年度)にかけて、500余輌が製造されています。「いわゆるB6」と言うのは鉄道作業局時代の形式で、後にイギリス製の2100型、イギリス製と日本製(神戸工場製)の2120型、ドイツ製の2400型、アメリカ製の2500型に細分化されます。更に、これらの形式を軸配置を変更改造して0-6-4とした2700型、プレーリー軸配置(2-6-2)とした2900型、シリンダを複式化した3500型などもあります。
これらの車輌のうち、2100型は全部の車輌がダブス製、2500型は全部の車輌がボールドウィン製です。2120型と2400型は複数のメーカーの競作となっています。
大部分が鉄道作業局の発注ですが、関西(かんせい)鉄道が独自に発注した雷(いかづち)級も、同鉄道の国有化に伴いB6の仲間に正式に組み入れられています。この他に、北海道鉄道、日本鉄道が発注したものも国有化に伴い国鉄籍を持っています。芸備鉄道から国鉄籍に入った車輌もありますが、これは一旦払い下げた車輌の出戻りです。
Pittsuburg made steam locomotive class 2850 of Japanese National Ry., 3 of them were manufactured at 1897. They have 2-6-0 wheel arrangement.
伊賀鉄道が開業に備えてピッツバーグに3輌発注した機関車の片割れです。もっとも、伊賀鉄道自体は開業前に解散してしまったんだそうですし、近鉄伊賀線の前身となった伊賀鉄道とは全く無関係な別会社だった筈です。その辺の詮索はともかくも、3輌発注された内の1号機と3号機の2輌は鉄道国有法によって後に国有化されう阪鶴鉄道が購入し12号機、13号機となった後に国有化されて2850型となり、この車輛はその内の2851号(=伊賀鉄道3号機)です。阪鶴鉄道が引き取らなかった残りの伊賀鉄道2号機1輌は尾西鉄道が引き取り21号機となり、後に鉄道省との間で車輌交換が行われたようで、2850型2852号となります。
後に2851号は播州鉄道・播但鉄道を経て西武鉄道に入籍し、傍系の上武鉄道に譲渡され、更に西武鉄道に戻されてから東京都品川区に寄贈されます。所在地、と言いますか、現在の展示場所も品川区内です。そのような事情もあり、機関車の至近の場所に設置されている説明板にも西武鉄道の名前は出てきても、伊賀鉄道だとかの話は全く出てきません。
この機関車の製造銘板です。1897年(明治30年)製造ですから、既に110歳を超えています。鉄の肌の光り具合が良い雰囲気です。
シリンダ周辺の写真です。銘板が取り付けてあるのはこちらの側面だけで、反対側にはありません。右上に僅かに写り込んでいるのが製造銘板です。反対側は製造銘板が取り付けてあった形跡のみが残っています。
後姿です。屋根が深くて、随分と面白い表情です。妻面の窓が風変わりにも台形をしているのは、元来は3枚窓だったものを中央の窓を塞いだからです。本当だったらEMDのSW1のように、窓の開口部が屋根に沿った円弧状を描いているからです。
こちら側面は中央の窓を塞いだ形跡が明らか残っていますが、反対側の妻面(=煙突側)は3枚窓のままになっています。但し、煙突側の中央の窓は、煙突やドームなどに邪魔されて、余り視界に貢献しているわけではありません。寧ろ、こちら側の中央の窓の方が視界に対する貢献度は高い筈なんですが、、、。
運転台から前方を見るとこんな風に見えます。私は身長176cmですからそれ程身長は低いわけでも高いわけでもありませんが、明治時代の標準的な体格の持ち主がこの機関車を運転したとすると、相当に前方視界は宜しくありません。
例えば止めてある車輌に煙突側から接近して連結するような場合は、操車係氏が誘導してくれないと、殆ど目を瞑ったままの状態で連結するようなことになります。水タンクの容量はかなり大きそうですから、そこそこの長距離を走ることを想定して製造された機関車だったのかも。
具体的な経歴は下記の通りのようです。
伊賀3→阪鶴12号→鉄道省2851→播州8→播但8→鉄道省2851→西武7→上武7
この機関車と品川区との曰く因縁は定かではありませんが、現在この機関車が「7号機関車」として展示されているのは、西武鉄道へ義理立てしての事なんでしょう。
上述の通り、この機関車はピッツバーグ製です。ピッツバーグ自体それ程多作と言うわけでは無いようですが、日本に入ってきた輛数はごく僅かで、やっと50輌程度です。ベルギー辺りの機関車ではもっと少数派はありますが、ボールドウィンなどに比べると圧倒的な少数派です。例えば国鉄に在籍した機関車に限って言えば次の通りのようです。
| 徳島鉄道甲1型→ | 鉄道省210型(3輌) | →小野田鉄道他 |
|---|---|---|
| 阪鶴3→高野→南海3→庄川水力電気→新宮7→ | 鉄道省1255型(1輌) | →流山1255 |
| 阪鶴2→ | 鉄道省1350型(1輌) | →秩父鉄道4→三河鉄道4 |
| 太田鉄道→水戸鉄道(太田鉄道から改名)→ | 鉄道省1690型(2輌) | →五戸鉄道(南部鉄道)→高崎板紙/東野鉄道(全2輌) |
| 九州鉄道174型・横浜鉄道1型他 | 鉄道省3400型(19輌) | |
| 京都鉄道→山陽鉄道26型→ | 鉄道省5200型(2輌) | →播但(旧・播州) |
| 関西鉄道110型「追風」→ | 鉄道省6000型(12輌) | |
| 関西鉄道40型「早風」→ | 鉄道省6500型(9輌) |
これは私の想像に過ぎませんが、日本国内に現存するピッツバーグ製の機関車としては唯一の車輌である可能性は高いです。その割にはさっぱり有名ではないですね。日本で鉄趣味の人は、かなりの比率で「**が廃車される」と聞くと直前になってワっと集まって騒いで引き上げて行くような御仁が圧倒的ですから、この機関車が幸いにも無名のまま?で終わるのは当然の帰結とも言えそうです。
Class 5500 steam locomotives were anufactured by Beyer Peacock. Between 1893 and 1898, 72 of them were manufactured for Japanese Goverment Railway.
前述の2120型と好対照を成し、明治時代を代表する急行旅客列車用のテンダ機で、軸配置はアメリカン(4-4-0)です。1893年度(明治26年度)から1898年度(明治31年度)にかけてベイヤー・ピーコックで72輌製造されています。輸入モノの4-4-0軸配置の機関車としてはニールソン(ネルソン)製の6200型を凌ぎ、最多輌数です。
Porter made steam locomotive class 7100 of Japanese National Ry., 8 of them were manufactured between 1880 and 1889. They have 2-6-0 wheel arrangement.
恐らくは、日本で一番有名なH.K.ポーター製の機関車であり、なおかつ、日本国内で一番有名なアメリカ型車輌です。この車輌は北海道庁の前身?のような存在である北海道開拓使直営の幌内鉄道が開業の際に用意した車輌で1号機が「義経」、2号機が「弁慶」、途中を飛ばして6号機が「静」と名付けられており、現存するのはこの3輌で、勧進帳の三役揃い踏みと言った処でしょうか。私自身はアメリカ型指向なのでダイヤモンドスタック付きの機関車も、カウキャッチャー付きの機関車もどちらも好みの対象なんですが、生憎ながら両方が一緒に付いている機関車は少々苦手です。その様なわけで「弁慶」「義経」「静」の3輌はちょっとなんですが、今となっては同時期のアメリカ型機関車で日本国内に現存する車輌は極めて少数なので、これ以上の泣き言は言いません(笑)。真っ黒基調に塗られているので、何となく霊柩車みたいになっちゃっているのが惜しい処です。
ご覧の通り全くのアメリカ型ナローゲージの機関車ですが、それにしては3ftゲージ(914mmゲージ)ではないのは、開拓使長官であった黒田清隆が将来的なことを勘案して本州の鉄道と同じ1067mmゲージにすることを決めたからなんだそうで、立派な識見です。車軸配置は2-6-0のモーガル、機関車本体の運転整備状態での重量は16.4t、最大動輪軸重は5tを切っていますのでかなり可愛らしい車輌です。
150型(1号機関車)や御料車も同様ですが、駅のホームを摸した観察台?のような場所に横付け展示されており、車内に立ち入ることは一切出来ません。ま、この種の希少な車輌を立ち入り自由・触り放題にすると言うのもおかしな話ですからこの展示方法はなかなか巧い方法だと思います。その代わりに、ホーム状の観察台に接した側の足回りが少々見にくくなってしまうのは止むを得ない処でしょうか。さりげなく観察台が緩いスロープになっているのも悪くないアイデアです。この場所をスロープにすると殊更「バリアフリーだ」と言い立てる人がいますが、そう言うこと以前にこんな場所に段差を作らない辺りがなんとも優れた感覚です。JR東日本の通勤用電車には1輌としてまともな居住性の普通車(2等車)は存在しませんが、こう言う博物館のような設備を作ると立派なものが作れるのだから、この会社はなんとも不思議な企業です(この文章はJR東を絶賛している文章ですので念のため)。
こちら側からだと弁装置周辺が良く見えますが、普通のステヘンソン式(スティーブンスン式)の典型的なものです。シリンダ上の弁室が、如何にもお弁当箱をとってつけたような形状であるのも、アメリカ型らしさがあふれています。うっかりしていて弁室に近付いて撮影することを忘れてしまいましたが、多分ポーターの社名の刻印は残っているんじゃないかと思います。
ポーターの製造銘板です。この会社も、ピッツバーグに工場が在ったんですね。ピッツバーグの車輌製造会社と言うと地名そのままの「ピッツバーグ」の方を思い出してしまいますが、必ずしもそうとばかりは言えないようです。
実はこちらの方が希少価値が高いかも知れない、「開拓使号」の客車です。アメリカ型の木造客車が現存してくれていると言うのですから、嬉し涙で泣けてきます。ざっと130年前の外国製の木造客車が、この湿度の高い日本国内に現存するのですから驚きです。この車輌、かなり屋根が深いですが、この時期のアメリカ型の客車としては特に不思議ではない屋根形状です。但し、同じ時期にも屋根がもっと浅い車輌も存在します。
幕板部分にはアメリカ風にロードネームのレタリングが入っていますが「 PORONAI(幌内)云々」と言うものです。
「開拓使号」の客車の車内です。ご覧の通り転換クロスシートで、車輌中央にはテーブルが用意されています。客室乗務員のような人の作業場所でしょうか。或いは天皇行幸の際にはこの車輌は御料車として使用された経緯もあるようなので、玉座を設置する場所なのかも知れないです。普通の転換クロスシート部分の座席は背ずりも低くて長時間乗り続けたいような車輌ではありませんが、所詮は100km前後の路線の車輌ですし、製造時期を考えれば充分に豪華な内容のようです。変な表現ですが、いわゆる高速バスが無かった時代の豪華長距離路線バスの座席を転換クロスシート化したような雰囲気です。東急バスの渋谷=江ノ島線とか、渋谷=長野線とかの車輌みたいですね。
この「開拓使号」には「立ち入り禁止」の表示はありますが「撮影禁止」の表示は何処にもないのでありがたく車内を撮影してきました。かんがえても見れば、開拓使号の車内なんて一度も撮影したことがなかったですから、実に貴重な体験でした。但し、車内を撮影するのには少々足場が悪いので、可動式ディスプレイか、相当に視野角の広いディスプレイを持つカメラでなければ撮影は困難です。
通称「ハチロク」と呼ばれる機関車ですが、8600型ではなく、8620型です。8600型と言うのは8620型とは全く別の機関車です。ハチロク=8620型であって、8600型は「ハチロク」とは呼びません。普通に動態・静態を問わず、保存されている「ハチロク」と言う機関車はほぼ間違い無く8620型の方で、8600型なんぞは先ず保存されているわけがありません。この文章は他人に対する嫌味として書いているのではなく、自己批判+備忘録として書いているだけですので念のため。
後述のC50型に先行する形式で、軸配置はモーガル(2-6-0)の旅客用機関車です。1914年度(大正3年度)から1929年度(昭和4年度)にかけて、687輌製造されています。ほぼ同じ時期に製造された軽旅客用の6700型、6750型、6760型の兄貴分とも言える形式です。特に、6760型と8620型は、ボイラとシリンダが共通設計になっています。更にこの8620型を高速・重旅客列車用としたものが18900型で、改番後はC51型となっています。
上の写真の機関車は8620号、要するにトップナンバー車です。1914年度(大正3年度)に汽車会社で製造された車輌です。キャブの下部が、初期型の特徴である、S字型となっています。この車輌は青梅鉄道公園で静態保存されているものです。流石に整備状態は悪くないのですが、何分にもこの場所は余り引きが取れないので相当に画角の広いレンズを持って行かないと撮影は困難です。この写真は、確かライカ判換算で20mm程度の画角で撮影したと記憶しています。
上の写真の機関車は58680号です。1922年度(大正11年度)に汽車会社で製造された車輌です。後天的な改造だと思いますが、ハチロクとしては珍しいデフレクタ付きである点が特徴的です。キャブの下が初期型とは異なりS字型になっていません。側窓が2連窓になっている点を除けば、外観はかなりC50に近づいてきています。
この写真はJR外房線新茂原駅に近い茂原市立萩原交通公園で撮影したものです。片側のシリンダカバーが行方不明になっていて余り状態は宜しくありませんが、機関車自体は公園の屋外に屋根も何もなく、ポツンと展示されていますので撮影し易いのなんのって。これほど撮影し易い保存機関車は滅多に考えられません。
「2代目」と書いてありますが、有名な「キューロク」のことです。元来、飽和式で2-8-0軸配置の9550型と、同じく2-8-0軸配置で過熱式の初代9600型が12輌づつ1912年度(大正元年度)に作られます。翌年に改良新型の機関車が製造されると初代9600型は後輩に番号を譲り、自分自身は9580型となります。
如何なる理由で同じ年に、同じ用途で、同じ車軸配置の機関車を飽和式と過熱式で12車輌づつ作り分けたのかは定かではありませんが、前述の8620型に対応する貨物用機関車として、やはり2-8-0軸配置で翌年に製造されたのが2代目9600型です。1913年度(大正2年度)から1926年度(大正15年度)にかけて、784輌が製造されています。
火床を動輪上に持ち上げてあるために、ボイラ中心が2594mmと、非常に高い位置にあります。国鉄の機関車で2代目9600型よりもボイラ中心が高い位置になるのはC62型だけではなかったかと思います。
1932年(昭和7年)から1946年(昭和21年)にかけて381輌が製造された、かなり近代的なタンク機関車です。大正期にはテンダ機ばかりが製造された結果、タンク機は明治期の旧型テンダ機からの改造と、鉄道国有化に伴い買収した機関車で賄われていました。昭和期になって旧型タンク機群を近代化するために量産された車輌がC10で、1930年(昭和5年)に23輌製造されます。C11はC10の溶接部分を増やし軸重を軽くするなどの改良をした車輌です。
上の写真の車輌はC11の1号機で、1932年度(昭和7年度)に汽車会社で製造された車輌です。
C111の写真2枚は青梅鉄道公園で撮影したものです。使用機材はペンタックス/*istDS+SMCペンタックスDA12mm〜24mm、です。車体が少々青黒いですが、ロシアンアイロン色ではなくて、空の青さに引き摺られているんだと思います。
上の写真の車輌はC11112号機で、1936年度(昭和11年度)に日車で製造された車輌です。
撮影したのは浜川崎駅で、撮影時期は1966年(昭和41年)頃、カメラは恐らくコニカIIbと言う、レンズ交換できないレンジファインダーのカメラです。レンズはヘキサノン50mmf2.8だったと思います。
上の写真の車輌はC11-292、2007年(平成19年)6月、JR新橋駅前にて撮影。リコー/キャプリオR1。
新橋駅前に静態保存されている戦時型のC11です。角型ドームが特徴的です。動態保存車も含めて、戦時型の角型ドームの車輌はかなり少数派であったと記憶しています。1945年(昭和20年)に日本車輌で製造された機関車です。
背景の文字がちょっと煽動的?ですが、これは東京23区内では比較的有名なディスカウントショップのチェーン店です。ちょっと展示場所が拙かったですかね。少々俯瞰気味ですが、新橋駅の山手線内回り・京浜東北線北行きのホーム上から撮影しています。こちら側からだと、機関車の足元まですっきりと撮影できます。
上の写真の車輌はC11-292、2007年(平成19年)6月、JR新橋駅前にて撮影。リコー/キャプリオR1。
上の写真とは反対側の側面です。こちら側から撮影すると、機関車の足元に花壇の柵が写ってしまうのが難点です。
簡易線用と言いますか丙線用と言いますか、1932年度(昭和7年度)から1947年度(昭和22年度)に掛けて293輌が製造されたタンク機です。車軸配置はC11が2-6-4であるのに対して、このC12は2-6-2(プレーリー)です。C12をテンダ機化して1935年度(昭和10年)から量産した機関車がC56です。
上の写真のC1241は1933年(昭和8年)に日立で製造されたものですから、初期型の部類に入ります。
鶴見線の浜川崎駅辺りで撮影したもので、各部から蒸気が上がっていることからもお判りの通り、現役時代に撮影したものです。鶴見線自体は未だに私鉄っぽい買収線区ですが、C12でなければ入線できないと言うほどの虚弱な路線ではありません。同時期にC11も一緒に使用されていましたこともありましたし、本線にはEF級の電気機関車も入っていますので、接続する各社の専用線内に入線することを意識して、敢えてこんな小型機関車が使用されていたのかもしれないです。
上の写真のC12287は最末期の車輌で、1947年(昭和22年)に日本車輌で製造されたものです。最末期もいいところであって、戦後製のC12は全体の1/20程度の輌数でしかありません。この287号機はJR久留里線の小櫃(おびつ)駅横の公民館で静態保存されているものです。ナンバープレート代わりにペンキで文字が書かれていたり、変な色挿しがしてあったりと、余り状態は宜しくありません。この車輌自体が久留里線で使用された実績はないようですが、C12そのものは実際に久留里線で使用されていたようです。
撮影機材は相変わらず、ペンタックス/*istDS+SMCペンタックスDA12mm〜24mmです。狭い場所撮影用?に買ったレンズなので、この手の撮影には本領を発揮してくれます。
8620型の改良型とも言うべき旅客用機関車で、車軸配置は同じくモーガル(2-6-0)です。1929年度(昭和4年度)から1933年度(昭和8年度)に掛けて、製造されています。但し、製造輌数はずっと少なく、大雑把に1/4の154輌です。
但し、1943年度(昭和18年度)に樺太庁有鉄道を国鉄に併合しており、この際に155号機から158号機までの4輌が追加された形となり一族合計は158輌となりますが、恐らくは終戦に際してソ連に接収されているでしょうから、最終的にはやはり154輌となります。
上の写真の123号機は1930年度(昭和5年度)に日立で製造された車輌です。C50は1929年度(昭和4年度)に95輌、1930年度(昭和5年度)に47輌、とまとめて製造されていますので、車輌番号の数字は大きくても比較的初期の車輌です。樺太庁有鉄道からの引き継ぎ車は4輌共に1930年度(昭和5年度)製です。
123号機の写真2枚は小山駅の近くに在る駅東公園で撮影したものです。整備直後とかで状態は非常に宜しいのですが、車庫?の屋根の採光窓から入る光でハレーションを起こすので、撮影条件としてはかなり厳しかったです。
撮影機材はペンタックス/*istDS+SMCペンタックスDA12mm〜24mmです。元々このレンズは狭い場所に押し込められた保存車輌を撮影するために買ったようなものなので、最近ではもっぱらこのレンズばかり使っています。
上の写真の152号機は1932年度(昭和7年度)に三菱で製造された車輌で、実質的には最末期に製造された車輌です。C50が製造されたのは述べ5年間ですが、後半の3年間では総数154輌の内のたった12輌しか製造されておりません。
撮影した機材は、恐らくはコニカIIbのヘキサノン50mmf2.8付き、、、じゃなかったかと思います。私が始めて手にしたカメラです。
上の写真の車輌は国鉄C51。2005年(平成17年)11月、青梅鉄道公園にて撮影。ペンタックス/*istDS+SMCペンタックス/DA12〜24mm。
型番は上述のC50型よりも大きいですが、製造時期はもっと古いです。8620型を高速・重旅客列車用とした車輌と言った処でしょうか。当初は18900型と言う形式で、1919年度(大正8年度)から1928年度(昭和3年度)にかけて、281輌が製造されています。
化粧煙突や、円弧を描いたシリンダ直前のランニングボードなど、如何にも大正期に作られた機関車らしき優美な雰囲気が感じられます。C51以降のC型テンダ機は3シリンダ機が2形式(C52とC53)と、ごく過渡的な少量生産の機関車(C54)が続き、本格的な量産機はC55までありません。ちょっとした空白ですね。
車軸配置2-6-2(プレーリー)の中型万能機です。性能的には8620型とC57の中間程度を狙っているようです。1938年(昭和13年)から1947年(昭和22年)に掛けて427輌が製造されたものです。製造会社は戦前製の車輌は川崎車輌と汽車会社、戦後製の車輌は汽車会社のみで製造されています。
東京近郊では横浜線の貨物列車や、我孫子経由で常磐線の上野から成田線に乗り入れて行った列車などが記憶に残っています。毎度古い話で恐縮ですが、我が一族は成田線の我孫子=成田間は電化してから乗ったことが無い、つまり、一番最近に乗った成田線の列車はC58が牽引するオハフ61です。この貴重な体験を失うことは勿体ないので、間違ってもこの区間でE231系なんぞには乗らないように家訓に定めようか、結構本気で考えております。
上の写真のC58363は大東亜戦争(第2次世界大戦)中の1944年(昭和19年)に川崎車輛で完成しました。かつて東北地方の国鉄で活躍したSLです。1972年(昭和47年)に現役引退しました。しかし、1988年(昭和63年)3月に埼玉県熊谷市で開催された「さいたま博」の協賛事業として秩父鉄道でのSL列車運転が実現しました。その後、秩父鉄道のSL(パレオエクスプレス)として今も活躍しています。
上の写真の車輌は秩父鉄道C58363、2006年(平成18年)11月、秩父鉄道白久(しろく)=三峰口(みつみねぐち)間にて、私の友人のご子息である住田雄輔君が撮影。この車輌に関する解説文は同君の御父君の手になるものです。
上の写真の車輌は秩父鉄道C58363。2007年(平成19年)10月、秩父鉄道三峰口(みつみねぐち)駅にて撮影。こちらの写真は愚息が撮影して来てくれました。
余りにも有名な貨物用機関車で車軸配置がミカド(2-8-2)となる機関車で、1935年(昭和10年)から1944年(昭和19年)に掛けて1115車輌が製造されたものです。「デゴイチ」という愛称で知られていることはご承知の通りです。
上の写真の4号機は1936年(昭和11年)に汽車会社で製造された車輌です。この形式の初期の車輌に特有の車体形状で、煙突とドーム類を一体化して覆ってある、いわゆる「ナメクジドーム」を装備している車輌です。2006年(平成18年)4月、千葉県流山市総合運動公園にて撮影。
上の写真の96号機は1938年(昭和13年)に汽車会社で製造された車輌で、これも4号機と同様の、いわゆる「ナメクジドーム」を装備している車輌です。2008年(平成20年)11月、碓氷峠鉄道文化むら(群馬県安中市)にて撮影。
上の写真の452号機は1939年度(昭和14年度)に汽車会社で製造された車輌です。戦争が激しくなる寸前(=未だ激しくはなっていない)時期に製造された車輌ですので、工作は未だかなり丁寧です。撮影した場所は青梅鉄道公園でして、同じくC51の5号機などとともに、一番引きが取れて撮影し易い場所に置いてあります。但し、このデゴイチは建物の西側の置かれているので、午後、少し遅い時間帯にならないと順光で撮影できません。
勾配区間用に製造されたタンク機で、元来は奥羽本線の福島=米沢間で使用することを前提に設計されたものです。ボイラはD52のものをやや短くしたような設計となっているようです。画面左上にCCD上の黒いゴミのようなものが写っていますが、実はこれはカラスです。都合の悪い時に飛んできてくれたものでして、、、。
2005年(平成17年)11月、青梅鉄道公園にて撮影。ペンタックス/*istDS+SMCペンタックス/DA12〜24mm。
Class AB10 battery powerd locomotive of Japanese National Railway was manufactured in 1927 by Shibaura(Toshiba). She was reformde EB10 electric locomotive at 1931.
田端操車場から分岐する須賀貨物線の沿線には化学薬品工場や陸軍省の弾薬工場?なども在るために、この路線に火の粉を撒き散らす可能性のある蒸気機関車や、架線とパンタグラフの間でスパークした際に火花が発生する電気機関車を使うことは不都合、、、と言うことで、1927年(昭和2年)に蓄電池機関車AB10として製造された車輌です。後に1931年(昭和6年)にごく普通の電気機関車であるEB10に改造されたものです。
製造後4年目で架線とパンタグラフの間でスパークして火花が発生する可能性のある、ごく普通の電気機関車に改造された理由は定かではありません。防爆型のモーターや、防爆型のスイッチ、と言うのであれば話は判りますが、この昭和6年になって防爆型パンタグラフ?が開発された、と言うことでもないようです。同じ陸軍省の弾薬庫でも、田奈弾薬庫の引き込み線(=現・横浜高速鉄道こどもの国線)ではC11が使われていたこともあるようなので、そこまで心配するには及ばないと言う判断がなされた結果ではないかと思いますが、これは私の想像に過ぎません。
EB10は現在、東京都府中市に在る「府中市交通遊園」に静態保存されています。メーカーである東芝(の府中工場)に近いから府中市が国鉄から借り受けた、と言うことのようです。茶色塗装が褪色してしまったような色に塗られていますが、これは保守の都合でこの色に塗られてしまっただけ、と考えた方が正解のようです。同じ敷地に置いてある都電6000型も同様ですが、どうも府中市の担当者は白っぽい色に塗りたがるようです。
主台枠を見なかったら、貨車と勘違いしそうな凄まじい台車を履いています。この程度でも機関車として使えるんだ、と感心することしきりです。さすがに軸箱は立派ですが、ペデスタルの部分の肉厚の薄いのなんのって。
ED16 locomotives of Japanese Goverment Railway/Japanese National Railway were manufactured 1931. Total 18 of tehm were manufactured by by Hitachi, Kawasaki, Mitsubishi and Toshiba.
中央東線・上越線用に1931年(昭和6年)に18輌製造された機関車で、EF52を1B+B1軸配置に変更したような機関車です。運転整備重量は約77t、出力は900kWですから、私鉄用のED機と比べるとかなり大型です。先従輪のあるED機は、国鉄に車籍のあった車輌では本機とボールドウィン・ウェスチングハウス製のED19(≒ED53)のみです。本機は直流ED機としては最重量級です。それでもEF機に比べれば小型軽量なので、線路状態が余り宜しくなかった青梅線での使用を配慮した結果、かなり遅い時期までED16が重用されたようです。青梅線に中央東線と共通運用?のEF64-1000が入線するようになったのは、線路改良が済んでからのかなり遅い時期となります。
晩年は鶴見線・南武線・青梅線などの旧浅野系鉄道の石灰石列車の牽引に使用されて、通学の折に頻繁に見掛けましたので私には身近な存在でした。以下にお目に掛ける写真は1980年代の前半に、頻繁に拝島詣でしていた時期に撮影したものが中心です。個人的には生涯の中でかなり頻繁に写真撮影に出撃していた一時期で、今となっては懐かしい思い出です。
上の写真の車輌は国鉄ED161。1983(昭和58年)年3月、国鉄青梅線拝島(はいじま)駅にて撮影。
上の写真の車輌は国鉄ED161。2005年(平成18年)年11月、青梅鉄道公園にて撮影。
上の写真の車輌は国鉄ED163。1983(昭和58年)年3月、国鉄青梅線拝島(はいじま)駅にて撮影。
上の写真の車輌は国鉄ED165。1983年(昭和58年)3月、国鉄南武線西国立(にしくにたち)駅にて撮影。
上の写真の車輌は国鉄ED1610。1983年(昭和58年)3月、国鉄青梅線拝島(はいじま)駅にて撮影。拝島駅の、青梅・五日市寄りに掛かっている陸橋から俯瞰撮影したものです。
上の写真の車輌は国鉄ED1618。1983年(昭和58年)3月、国鉄南武線西国立(にしくにたち)駅にて撮影。
ED17 electric locomotives, manufactured by English Electric, between 1923 and 1925.
EE(イングリシュ・エレクトリック)製のB-B箱型車体の機関車で、製造時期は1923年(大正13年)から1925年(大正15年)に掛けてです。当初は主に旅客用に使用されていた機関車ですが、1928年(昭和3年)の大改番を経て、大東亜戦争(第2次世界大戦)前後にギヤ比を大きくする改造してED17型になっています。ED17は車体形状の異なる車輌が含まれていますが、重量60t弱、出力840kWと言う点は全て共通です。大雑把に言えば私鉄向けのいわゆる50t機を一回り大きくした程度ですから、亜幹線やローカル線の貨物輸送用には適当な車輌ではなかったかと思います。生憎ながら重量が60t近くともなると私鉄で使うには重過ぎるからなのか、払い下げられて残った車輌は無いようです。
一番多い車輌は1040型(後のED50型)と6000型(後のED52型)を改造した車輌です。薄めの屋根、デッキ無し、妻面中央に貫通路がある車輌で、標準型?とも言うべき車輌です。
二番目に多いのは6000型(後のED51型)から改造した3輌で、デッキ付き、正面非対称の車輌です。標準型?と同じく出自は6000型ですが、横浜港で水揚げ中に関東大震災のために転落して水没してしまったために、本国に送り返して作り直して出てきたら6000型ではありながら全く形状の違う車体で出来上がってきたものです。そのために、1928年(昭和3年)の大改番の際には6000型本家から分離独立して独自形式のED52を名乗ります。
三番目は1030型(後のED13型)を出自とする2輌で、「デッキ無し車体+妻面中央の貫通路」と言う車体形状は標準型?と同様ながら、屋根がかなり厚くなっているために、一目で相違は判断できます。
上の写真の車輌はED171。2008年(平成20年)9月、鉄道博物館駅にて撮影。
大宮工場の敷地の一部に建設された鉄道博物館に静態保存されているED171です。此処に収納されるに際して徹底的な整備が行われたようで、状態は極めて宜しいです。惜しむらくは場所が余り広くはないので撮影に際して引きが取れないのと、ノスタルジックな雰囲気を狙っているのか率直に言って建物内が薄暗いので苦労させられます。
上の写真の車輌は国鉄ED176?。1967年(昭和42年)8月、国鉄中央線八王子(はちおうじ)駅にて撮影。いわゆる標準型?とも言うべき車輌で、ED50からの改造車です。
余談ですが、カツミ製のOゲージの車輌でEB50と言う機関車があります。EF58→EB58とか、EH10→EB10などと同様に実物のED機をEB機として模型化した機関車です。そうしてみるとこのカツミ製EB50は、この写真のED50(≒ED17主流派)をB型機化したものなのか、、、と言うと実はED36をB型機化したものです。「ED36ってなんだ?」と言われそうですが、以下に写真を上梓してあるED1726の小型兄弟機で、青梅鉄道1010型→鉄道省ED36→西武鉄道E41型と言う足跡を辿った機関車です。青梅鉄道に限らずこの種の機関車を買い付けた鉄道会社は多いです。
上の写真の車輌はED1726。1966年(昭和41年)10月、国鉄横須賀線久里浜(くりはま)駅にて撮影。ED51型から改造された、正面が左右非対称でデッキ付きの車輌です。
余談の続きですが、カツミ製の「EB50」は、何故か「50」と言う数字を使いながらもED50よりは、こちらのED51の方に遥かに類似しています。もっとも、上述の通り一番似ているのはED36なんですがね。なんでこんな風に混乱しているのかは不明です。
Class ED40 Abt system electric locomotives were manufactured between 1919 and 1923, by Japanese Goverment Railway, at their own Omiya factory.
鉄道院大宮工場で、1919年(大正8年)から1923年(大正12年)にかけて14輌製造した電気機関車で、横川=軽井沢間の信越本線のアブト式区間用の機関車です。当初の形式は10020型でしたが、有名な1928年(昭和3年)の番号改訂によりED40型となります。大正時代の機関車らしく、古武士を思わせるようないかつい外観が最大の特徴でしょうか。車軸配置は極めて簡単で0-8-0と言うか、ロッド連動で先従輪無しの4軸固定です。
軽井沢方の妻面で、こちらには運転台はありません。車体上部が飛び出していますが、これは抵抗器の収納場所です。車番に拠っては逆向きの車輌もあってアメリカ型の流線型ディーゼル機のように背中併せにAユニット+Aユニットの編成を組んだ、、、とか言うことではなくて、全ての車輌が横川方にのみ運転台があり、軽井沢方は運転台無しです。
上の写真の車輌は国鉄ED9121。1966年(昭和41年)、国鉄仙山線作並(さくなみ)駅にて撮影。旭光学/SP+旭光学/スーパータクマー50mmf1.8。
交流電化の初期に商用周波数での交流電化の先進国であるフランスからサンプル機の輸入が計画されましたが、結局は国産で進める事となりED44/ED45/ED46と言う試作機関車が作られ、後にED90/ED91/ED92と改番されます。3者の違いは
シリコン整流器が実用化される以前の事なのでイグナイトロン、エキサイトロンなどの複数の方式が錯綜しますが、結局現在の交流機関車の直接の始祖となったのはED45/ED91とED46/ED92であると言うことです。この写真のED9121は初期には水銀整流器を搭載していたものを、後にシリコン整流器に載せ換えて仙山線で使用されていたもので、この写真は1966年(昭和41年)頃に親父が勤務先の社内旅行の際に作並駅で撮影したものです。
旅客用のEF機で、車軸配置は2C+C2です。ED16のEF化版ですが、こちらの方が少々先行していて、1928年(昭和3年)から製造されています。これに対してED16の方は1931年(昭和6年)からの製造です。EF50とED17、EF51とED19、EF60とED60、のような関係と言えましょうか。デッキが長く堂々たる外観の車輌です。基本的にはEF52とEF53の2形式で合計28輌が製造され、EF14、EF54、EF59と言うのは改造・改称による派生形式です。
上の写真の車輌はEF532。2008年(平成20年)12月、碓氷峠鉄道文化むら(群馬県安中市)にて撮影。
上の写真の車輌はEF591(EF538)。2008年(平成20年)12月、碓氷峠鉄道文化むら(群馬県安中市)にて撮影。
信越本線用に製造された機関車ですが、碓氷峠の急勾配区間をアブト式を使用せずに粘着運転させるためにかなり苦心して設計された機関車です。EF63は純粋に横川=軽井沢間の補機用に限定されているので、思い切って車重が大きくなっており総重量は108tです。これに対して横川=軽井沢間を挟んで信越本線を南下して上野まで走ってくるEF62の方はもう少し軽量で総重量は96tに抑えられていますが、その代わり?に軽量化を果たすために車軸配置が通常の国鉄型EF機にありがちなB-B-BではなくてC-Cになっています。この2形式は碓氷峠で協調運転(いわゆる重連・総括制御)させることが大前提ですからモーターやギア比などは共通です。
EF62は1962年(昭和37年)から1969年(昭和44年)に掛けて製造され、総数は54輌です。EF63は1962年(昭和37年)から1976年(昭和51年)に掛けて製造され、総数は25輌です。EF63の方が妙に長期にわたって製造されているのは、後年になって事故車の補充が行われたからです。
上の写真の車輌はEF621。2008年(平成20年)12月、碓氷峠鉄道文化むら(群馬県安中市)にて撮影。
上の写真の車輌はEF6254。2008年(平成20年)12月、碓氷峠鉄道文化むら(群馬県安中市)にて撮影。
上の写真の車輌はEF631。2008年(平成20年)12月、碓氷峠鉄道文化むら(群馬県安中市)にて撮影。
上の写真の車輌はEF6310。2008年(平成20年)12月、碓氷峠鉄道文化むら(群馬県安中市)にて撮影。
スカート周辺が随分と賑やかですが、電車を連結した際に協調運転出来るようにしてあるからです。要するに、この機関車だけで電車を押し上げたり牽引したりするのではなく、電車側で加速・減速の操作をすれば、この機関車も同調して加速・減速すると言うことです。このようにしておくと、最大12輌編成の電車と一緒に碓氷峠の昇り降りが可能ですが、協調運転をしないとなると最大で8輌編成までなので50%も輸送力が違ってしまいます。EF63は安全性を考えて碓氷峠の下側になる横川方に連結されますので、電車を連結する軽井沢方のみがこのような外観になっています。連結器も、電車を相手にする密着連結器と、客車や機関車を相手にする自動連結器が一体化したような独特な外観です。
上の写真の車輌はEF6311。2008年(平成20年)12月、碓氷峠鉄道文化むら(群馬県安中市)にて撮影。
上の写真の台車は、EF63の外側(と言うか前後)に使用されているDT125台車です。
上の写真の台車は、EF63の内側(と言うか中央)に使用されているDT126台車です。
本線用の2基エンジン機関車であるDD51を1エンジンとしてほぼ半分の出力とし入換用機関車として設計した車輌で、機関出力は1250馬力です。1000馬力級の入換用機関車としてはDD13がありますが、こちらは2エンジン機であるため保守に手間が掛かり、55t級の機関車であるために13.5t以上の軸重を許容できる路線でなければ使用できない、、、しかしながら粘着重量は物足りないと言う問題点がありました。こう言った問題点の解決策として、1エンジン・1000馬力級で軸重を13.0tに押さえた65t級の5動軸機として開発されたものです。軌条横圧に配慮してB-C軸配置では無く、B-A・A・A軸配置となっている、ちょっと変わった車輌です。
| 番代区分 | 1〜 | 501〜 | 901〜 | 1001〜 | 1501〜 |
|---|---|---|---|---|---|
| エンジン | DML61ZA(1250馬力) | DML61ZB(1350馬力) | |||
| SG | 有り | 無し | 有り | 無し | |
上の写真の車輌は国鉄DE1066。1984年(昭和59年)、新興(しんこう)駅にて撮影。
DE10の基本番代車です。66号は最初は佐倉機関区に配置されたようですが、後年はずーっと新興駅に配置されていたようです、、、と言うか、私が記憶している限りでは、新興駅ではこの機関車だけで入れ換えも本線運用もやっていたようです。実際には他の車輌も居たのだと思いますが、私が撮影に行くとこの車輌しか居ませんでした。
上の写真の車輌は国鉄DE10145。1987年(昭和62年)、新鶴見(しんつるみ)操車場にて撮影。
上の写真の車輌は国鉄DE10147。1987年(昭和62年)、新鶴見(しんつるみ)操車場にて撮影。
上の写真の車輌は国鉄DE10542。1987年(昭和62年)、新鶴見(しんつるみ)操車場にて撮影。
この写真以降は500番代車です。基本番代車からSG(暖房用蒸気発生器)を取り外し、代わりに死重を搭載しています。
上の写真の車輌は国鉄DE10553。1987年(昭和62年)、新鶴見(しんつるみ)操車場にて撮影。
上の写真の車輌は国鉄DE10554。1987年(昭和62年)、新鶴見(しんつるみ)操車場にて撮影。
上の写真の車輌は国鉄DE10557。1987年(昭和62年)、新鶴見(しんつるみ)操車場にて撮影。
上の写真の車輌は国鉄DE10566。1987年(昭和62年)、新鶴見(しんつるみ)操車場にて撮影。
上の写真の車輌は日本貨物鉄道DE101555。2006年(平成18年)2月、JR鶴見線扇町(おうぎまち)駅にて撮影。
出力増強型である1350馬力の1000番代から、SGを取り除いた1500番代車です。
1958年(昭和33年)から1967年(昭和42年)に掛けて約420輌が製造された入換用のディーゼル機関車です。前期型(と言うか110号機以前)の車輌は370馬力のDMF31Sエンジンを2基搭載、後期型の111号機以降は500馬力のDMF31SBエンジンを2機搭載しています。流石にJR各社には現役の車輌はいないようですが、DD13と同型の機関車は各地の臨海鉄道で今でも現役です。具体例としては神奈川臨海鉄道のDD55型、鹿島臨海鉄道のKRD1型、福島臨海鉄道(旧小名浜臨港鉄道)のDD55型など、枚挙にいとまがありません。
50年も前の機関車ですが、前述の「各地の臨海鉄道」の機関車のざっと半数はDD13の同型機だと思われますから、相当な長寿命です。SGを持たないから旅客列車には使えないと言う点が国鉄時代は弱点の一つであったようですが、貨物専業の臨海鉄道には無関係な話です。軸重が14tと重い点も低規格の路線で使えないと言う点では弱点だったようですが、この点も「各地の臨海鉄道」ではそれ程低規格の路線は無い筈、、、とまぁ、臨海鉄道的な見地からすれば大した欠点は無かったために現在に至るまで愛用されているようです。流石に陰りは見え始めているようです。
初期の車輌は前後のボンネットに半埋め込み式のヘッドライトを1個ずづつ持ち、台車は外側イコライザ付のアメリカ型的なDT105と言う台車です。後期の車輌は前後のボンネット端部に完全埋め込み式のヘッドライトを2個ずつ持ち、台車はDT113系の最近の機関車でもよく見掛けるようなものを履いています。初期型はその昔にマイクロキャスト水野がアルコのFA/FBの下回りを流用してHOゲージで製品化しており、その際に5mmくらい長さがオーバースケールになっちゃったと言う話がありますが、これは1960年代の神話のような時代の話です。
上の写真の車輌は国鉄DD13-241。1985年(昭和60年)2月、国鉄新鶴見操車場(横浜市鶴見区)にて撮影。
上の写真の車輌は国鉄DD13-302。1985年(昭和60年)2月、国鉄新鶴見操車場(横浜市鶴見区)にて撮影。
1962年(昭和37年)から1978年(昭和53年)にかけて、約650輌が製造された幹線用のDD機です。当初はDML61Sエンジンを2基搭載した2000馬力機でしたが、1965年(昭和40年)製の20号機以降はDD53と共通のDML61Zエンジン2基(=2200馬力)となり、19号機以前の車輌も後に換装され、統一されます。
1962年(昭和37年)に試作的に製造された1号機です。2号機以降と比べると、運転台屋根にひさしを付けていないので、なんとなく丸っこい印象があります。
寝台特急「北斗星」を牽引する重連仕様の500番台機です。機号が1140でも500番台機なのか、と言うと。貨物列車用でSG無しの800番台が先に設定されてしまっていたために799号機の次が1001号機となっているからです。この車輌はJR貨物所属の車輌ですが、アルバイトで旅客鉄道会社(=JR北海道)の客車を牽引しています。
DD51の両端台車であるDT113です。軸バネの両側に巨大な砂箱のようなものが取り付けてあるので、ちょっと異様な雰囲気がします。
DD51の中間台車であるTR101です。DD機の中間台車なので、付随台車です。DD53が履いている中間台車もほぼ同様のものです(全く同一では無いようです)。
DD51を除雪用として仕様変更した箱形車体の機関車で、1965年(昭和40年)と1967年(昭和42年)に合計3輌が製造されました。DML61Zエンジンを2基搭載し、機関出力は合計で2200馬力です。足回りはDD51と同一なので重連運用や、共通運用に組み入れての使用が可能ですが、除雪目的の機関車=冬場は客車牽引は他車に任せて自分は除雪に専念する、と言うことで客車用のSGは持ちません。車輌重量は81tです。
碓氷峠鉄道文化むら(群馬県安中市)に静態保存されているDD53の1号機です。随分と日当たりの良い場所に置かれていますし、引きも取れるので撮影には悪くありません。ピーカンだと下回りに影が強く出過ぎるのが難点ではありますけど。
DD53の除雪用前頭車?です。こちらにも機関車と同じ「DD53 1」のナンバープレートが取り付けてありますので、機関車の一部として取り扱われているようです。
DD53の除雪用前頭車?との連結部の写真です。黒矢印の部分にシャフトが貫通していますが、除雪用前頭車のロータリー羽根を駆動する推進シャフトであるようです。実際の使用時には後ろに推進用機関車を連結して、自分のエンジンは2台とも除雪用に使う、なんてことも出来るようです。
クモハ12は元来、40系の17m仕様車として、モハ34と言う名前で製造された両運転台の車輌です。両運転台と言う処からタネ車としてクモニ13にかなりの車輌が改造されてしまいます。その一方で地方線区の電化が進むとやはり両運転台のクモハの需要が増えてくるので、今度は片運転台のクモハ11から両運転台化改造される車輌が続発?します。以下に写真をご覧いただくのはクモハ11の200番代から改造された車輌です。
この種の改造車としてはクモハ11の200番代から改造されたクモハ12の50番代車が有名ですが、改造タネ車が同じでも50番代にならなかった車輌もあります。
上の写真のクモハ12053は、クモハ12052と共に最後まで残った営業用の17m級省線電車で、鶴見線の大川支線で使用されていた車輌です。旧モハ31から編入されたクモハ11の200番代に1959年(昭和34年)に大井工場で運転台を増設したようです。非貫通側が本来の運転台で、増設側は貫通・半室運転台となっています。以前はこの車輌、南武線の予備車としても使われていました。両運転台ですからどの車輌の代用にでも使える点が便利だったようです。
私の記憶している限りでは、川崎寄りから2輌目のモハ72852の代用に使われたことがあるのですが、クモハ12の方は半室運転台とは言っても、運転台に相当する部分は保護棒が横に渡してあります。従って、この部分を往来するためには保護棒を外すか乗客が潜るかしか方法は無いのですが、どうもこの保護棒は取り外せなかったようで、乗客は皆、保護棒を潜って往来していました(私も潜りました)。今から、四半世紀ほど前の話です。
最末期に大川支線専用で使われるようになったのは、分岐駅の武蔵白石駅の大川支線のホームは17m車1輛分しか確保できない上に急曲線に掛かるから、と言うのがその理由だったようです。さすがに老朽化が進んだのと、大川支線の電車を全部鶴見直通にする代わりに本線からの分岐駅である武蔵白石は通過させる(=ホームは消滅させる)と言うウルトラC的な解決策によって、今では103系3連が入線するようになりました。
ここに掲出した2枚の写真はどちらもモハ12053ですが、1枚目は最初から運転台の付いていた非貫通側、2枚目は後年の改造で中間連結面に少々無理して運転台を設置した側です。元来、30系、31系、32系などの17m級電車は運転台側は非貫通です。この種の通勤用の電車で運転台側に貫通扉が付く車輌は40系(モハ33とモハ34)、50系(モハ50とクハ65)などに限られます。「限られる」とは言っても、40系と50系を合わせるとかなりの輌数にはなりますな。
同じくクモハ11の200番代から改造されたクモハ12ですが、こちらは上述の50番代よりも改造時期が数年早いので、一旦はモハ34となっています。車歴を追うと、モハ31→モハ34→クモハ12の10番代、と言うことになります。上述の50番代はモハ31→クモハ11の200番代→クモハ12の50番代、と言うことです。但し、これは一旦モハ34に編入されたかどうか、と言うだけの話です。
この写真に写っているのは上のクモハ12053とは逆側の、主抵抗器の無い方の側面です。
こちらはオマケで、クモハ12ではなくてクモヤ22、中間電動車化されていたモハ10を両運転台化改造した車輌です。車輌としての構造はクモハ12と大差無いので、後にクモハ12の40番代に編入された車輌もあります。但し、クモヤ22から改造されたクモハ12の40番代と言う車輌はJR東海の独自企画(規格?)なので、17m級電車が多数活躍していた南武線や鶴見線とは何ら関係はありません。クモヤ22とは無関係に、クモハ12の40番代に改造された車輌もありました。
| モハ10 | 中間電動車 | 3扉ロングシート |
|---|---|---|
| クモハ11 | 制御電動車・片運 | 3扉ロングシート |
| クモハ12 | 制御電動車・両運 | 3扉ロングシート |
| クモニ13 | 制御電動車・両運・荷物電車 | |
| クモハ14 | 制御電動車・片運 | 2扉クロスシート |
| サロ15・サハ15 | 中間付随車 | 2扉クロスシート |
| クハ16 | 制御付随車・片運 | 3扉ロングシート |
| サハ17 | 中間付随車 | 3扉ロングシート |
| クハ18 | 制御付随車・片運 | 2扉クロスシート |
| クハニ19 | 制御付随車・片運・荷物室付 | 3扉ロングシート |
| クモエ21 | 制御電動車・両運・救援車 | |
| クモヤ22 | 制御電動車・両運・コンテナ輸送電車/牽引車 | |
| クモル23 | 制御電動車・両運・配給車 | |
| クモル24 | 制御電動車・片運・配給車 | |
| クエ28 | 制御付随車・両運・救援車 | |
| クル29 | 制御付随車・片運・配給車 |
本当は余り珍しくも何ともなかった車輌ですが、あっと言う間に数を減らしてしまいました。最初にの文章を書いた時点でクモハ100とクモハ101が3輌づつで残数6輌のみだったのですが、その6輌も後述の205系1000番代に持ち場を追われて、現役の101系は秩父鉄道に譲渡された36輌のみとなりました。
元来は中央線の輸送力増強用として、比較的駅間の長い路線で、全M編成で走らせて高加減速性能を前提として作られた車輌です。生憎、全M編成では変電所容量が不足するからと言う淋しい理由で付随車を連結するようになりました。そのような関係もあって比較的初期のサハ・クハは将来の電装を見込んでパンタ台が取り付けてあったり、電動車用の台車を履いていました。末期の車輌は電装は諦めて?あっさりした外観で出場したようです。
クモハ・モハにはパンタ付きとパンタ無しでそれぞれクモハ100とクモハ101、モハ100とモハ101の2車種があります。予定通り全M編成のままで押し通していればこの4車種だけで終わった筈です。形式上の合理性?だけを考えれば、クモハは100か101のどちらかに揃えてしまって、モハだけは100と101を用意しておけば、3形式だけで済ますことも可能だった筈です。
しかしながら、結果的には前述の通りサハ・クハが発生してしまい形式が増えてしまいました。更に、サハとクハを将来電装した際に、100にするのか101にするのかを見越してパンタ台を取り付けた車輌やそうでない車輌があり、やはりサハ100とサハ101、クハ100とクハ101の2種がありました。結果としてはモハ、クモハ、サハ、クハが各々100と101がありますから、合計8形式が揃うこととなりました。
上の写真の101系は南武線の浜川崎支線の尻手=浜川崎間運転用にクモハ同士を背中併せにして2輌編成としたものです。105系や119系のような1M方式の電車にしなかったのは、この区間だけのために形式の異なる車輌を武蔵中原電車区に同居させるのを避けるためだと思います。恐らくは予備車としても使用できるように南武線本線と同一車種にしたのでは無いかと思います。2輌とも電動車でなければ支障があるような路線ではありません。
処でクモハ同士を背中併せにした2連ですから、当然ながら8個モーターの全M編成になります。この編成の組み方は新造直後に中央線が基本8連・付属2連で運転されていた当時の付属編成と同じです。これに限らず、南武線の101系は当初は4連全Mで走っていました。しかも、モハ90系から改番した車輌だけの4連があり、PS13付きで走っていた姿は印象的でした。後の6連化の際には付随車を2輌増結して対応しており、私が記憶している限りでは、南武線で全M4連はあっても全M6連は無かったと思います。
どうも、早い時期に中央線で全M編成を放棄して付随車を増結したために所期の性能を発揮することができず、結果として103系に追い立てられたような論調で雑誌記事を書く人が多いからだと思いますが、RP誌の101系特集でも南武線の全M4連がびゅんびゅん走り回っていた話は全く無視されているようです。これはまぁ、悲壮感?を好む日本人特有の浪花節的感傷に拠るものでしょう。同時期に南武線を走っていたのは73系の2M2Tの編成ですから、これと101系全M4連を乗り比べたら、どちらが高性能車なのか、素人にもわかってしまいますね。
こちらは鶴見線で使用されていた当時の写真です。鶴見線の弁天橋電車区は、南武線の中原電車区の下部組織?のような位置付けで、そのせいもあってか南武線とお揃いの101系が使用されていました。右の編成の3連はクモハ+モハ+クハの3連で、この編成を2本連結すると、そのまま南武線用の6連として使用できます。
クモハ11+クハ16の編成では南テシの表示のある車輌が南武線で営業用に使われているのを見掛けたことがありますが、101系でも実際にそのような使われ方がしたのかどうか、少々疑問です。単に融通しあえるようにしておいただけで、実際にそのような運用が行われたのかどうか、定かではありません。私が知らないだけじゃないかとも思いますが、、、。
本家中央線?で使用されていた頃の101系クモハ100の102号車。撮影場所は青梅線・五日市線の拝島(はいじま)駅ですが、ご覧の通り東京行きの方向幕を出してます。
前述の101系同様に、余り珍しいとは言えない車輌なんですが、この1000番代のみがクモハです、、、と言いますか、他の番代の205系にはクモハが存在しないのに対して、1000番代にはクモハしかありません。
前面形状は普通の205系が少々窓面が奥まっているのに対して、1000番代は妻面とツライチと言うか、やや膨らみ気味です。中間車から先頭車化改造された仙石線の車輌もこのような意匠になっているようです。
使用しているのは南武線の浜川崎支線で、前述の101系の後継です。編成は浜川崎方がパンタ付きのクモハ205、尻手方がパンタ無しのクモハ204です。ワンマン運転対応車ですが、整理券発行機などの設備はありません。
この路線で駅員無配置なのは終点の浜川崎だけで、尻手と川崎新町は駅員氏が居るし、八丁畷は京急の駅に間借りしていてそちらの駅員氏が居るから、と言うことのようです。
上の写真の車輌はJR東日本クハ205-1。2003年(平成15年)4月、JR東日本山手線鶯谷(うぐいすだに)駅にて撮影。ミノルタ/α303i+タムロン/28〜300mm。
こちらは山手線で使用されていた真っ当な車輌ですが、初期の数編成のみが2段窓になっています。途中から1段下降窓になってやがてはE209系・E231系へと発展して行くようです。国鉄風の車輌としては最末期の車両と言うことですね。但し、2段窓なのは最初に製造された4扉車の方だけで、後に増結された6扉車などは1段下降窓になっています。
旧国鉄時代に、中央緩行線・総武緩行線の輸送力増強のために複々線化する際に張り付け線増ではなくて、やや離れた箇所に別会社の手によって並行した線路を建設することが計画されます。別会社とは言っても発行済み株式の51%を鉄道省時代から有していて極めて大雑把に言えば子会社みたいな存在の営団地下鉄が運営母体であり、複々線化とは言っても同時に従来、高速鉄道網から疎外されていた新宿区山間部、東京都墨東(ぼくとう)地区、千葉県東葛(とうかつ)地域沿岸部の開発も念頭に置いて建設されたのが現在の東京メトロ東西線で、この東西線への乗り入れのために国鉄が導入した車輌が301系で、1966年(昭和41年)と1969年(昭和44年)に製造されています。
基本的には鋼製車体の103系をアルミ車体化し、長い地下区間を走行するために正面を貫通化し、MT比を6M1Tと高くしたものです。以上の点と同時に、6M1Tの7連にするわけですから、運転台付きの車輌はクハ301とクモハ300が半数づつとなります。同時にモハ300とモハ301も製造されており、製造後暫くの間はこの4形式で運用されます。後には10連化され、その際には301系同士での5連+5連とか、5+5であっても連結相手が103系であったりするような運用も行われます。
最終的には7連が8本(=56輌)製造されたそうですが、未開の原野みたいな場所にたった1本だけの鉄道として東西線が開通した訳ですから、乗客が集中するのは当然でして朝ラッシュ時に7連の301系がが来ちゃったりすると、当然ながら遅延が発生します。遅延が発生しようが何をしようが、増結するべき付属編成が301系には無いのですから組み替えて10連化するしか仕方が無い訳です。10連化の際には、単純に組み替えただけではMT比が9M1Tと高くなり過ぎてしまうので、モハが3輌電装解除されてサハ301となったようです。生憎、サハ301に乗ったことはあっても撮影はしなかったので、以下にお目に掛けるのは製造当初から使用されている4形式のみとなります。
上の写真の車輌はクハ301-2、2000年(平成12年)7月、東京メトロ東西線葛西(かさい)駅にて撮影、ミノルタ/α303i+タムロン/185DP28〜300mm。
津田沼・西船橋向きのクハ301です。301系で津田沼・西船橋向きの運転台付き車はクハ301のみです。屋根上が賑やかですが、従来からの角型ベンチレータを残して集約分散型のクーラー2基を取り付けたためです。この角型ベンチレータはモハ90系のものをちょっと細身にしたような形状だったように記憶しております。
上の写真の車輌はモハ300-10、2000年(平成12年)7月、東京メトロ東西線葛西(かさい)駅にて撮影、ミノルタ/α303i+タムロン/185DP28〜300mm。
サハみたいな外観の車輌ですが、れっきとした中間電動車です。皮肉なことに、後に本当にサハに改造されてしまった車輌もあります。
上の写真の車輌はモハ301-14、2000年(平成12年)7月、東京メトロ東西線葛西(かさい)駅にて撮影、ミノルタ/α303i+タムロン/185DP28〜300mm。
パンタグラフ付きの中間電動車のモハ301です。103系と同様に、301系も奇数形式の電動車にパンタグラフが1基載っています。パンタグラフの搭載位置は三鷹・中野方であると同時に、こちら側にモハ300、またはクモハ300を連結してユニット編成を組みます。
上の写真の車輌はクモハ300-1、2000年(平成12年)7月、東京メトロ東西線葛西(かさい)駅にて撮影、ミノルタ/α303i+タムロン/185DP28〜300mm。
三鷹・中野向きのクモハ300です。301系で三鷹・中野向きの運転台付き車はクモハ300のみです。
鉄道省が1933年(昭和8年)から1936年(昭和11年)に掛けて製造した16m級計量車体の機械式気動車です。搭載するエンジンの種類によって形式が細分化されていますが、写真のキハ41307は戦後にDMF13エンジンに換装され、後にキハ04型となった車輌の一員です。車内は戸袋窓の部分だけがロングシートで、それ以外の場所はいわゆるボックス席です。何というか、背刷りが低いしシートピッチも狭くて余り居住性は良くありません。
総数140輌程ですが、その内の60輌以上が私鉄に払い下げられます。車体が比較的小振りで、地方の弱小私鉄でも使いやすかったことも払い下げられた車輌数の多さに影響を及ぼしているようです。また、機械式で総括制御出来ないことも国鉄自体がキハ41000系を早い時期に手放すことを促進したようです。そのアオリで?キハ41000系の払い下げ車が充分に行き渡ってしまったからなのか、後継のキハ17系は余り払い下げ車が多くないし、私鉄が製造した同型車と言うのもごく少数です。たしか、キハ17系のコピー車は鹿児島交通が数輌作った低度だったでしょうか。
上の写真の車輌はキハ37-1002、2006年(平成18年)1月、JR久留里線小櫃(おびつ)駅にて撮影、
国鉄最末期に老朽化した気動車を改造して作られた形式で、確か全部で5輌有り、加古川線に3輌、久留里線に2輌配属されたんじゃないかと思います。台車から察する処、種車はキハ20系でしょうか? 随分凄い扉配置ですが2輌背中併せに連結した際に扉間隔がほぼ均等になり、なおかつワンマン運行に都合の良いように乗客用扉を乗務員室に目一杯寄せた結果らしいです。これでもってロングシートですから車内はかつての身延線のクハ47のようです。少しでも動力性能を向上させるために車体を低い目にして軽量化したりと、かなり涙ぐましい努力の痕跡が感じられる車輌です。
JR東に車籍の有る久留里線の2輌は反対側にキハ38を連結して使用されていますが、この区間はワンマン運転じゃ有りませんし、相棒のキハ38は3扉の車輛ですから扉間隔は揃いません。結果としては単なる変な気動車として一生を終わることになりそうです。
上の写真の車輌はオヌ331、1966年(昭和41年)頃、大宮(おおみや)駅にて撮影。
東海道本線用に製造された暖房車です。それ以前のスヌ31(スヌ6850)と比較すると、ボイラー容量が少々大きくなった程度で、外観などは大差ありません。ボイラー容量が増えて「ス」が「オ」になったのは、多少の軽量化が図られたと言うことでしょうか。台車はTR23です。1966年10月、大宮駅にて撮影。
上の写真の車輌はナヌ325、1966年(昭和41年)10月、国鉄横須賀線久里浜(くりはま)駅にて撮影。
中央東線用に製造された暖房車です。東海道線用のスヌ31、オヌ33と比べると、形式記号からも判るとおり少々小振りな車輌です。台車は貨車用のTR24です。この写真では判然としませんが、左側に止まっている車輌はED23(ED57)ではないかと思います。
日銀所有の現金輸送車です、、、と書くと、以前は書くことすらご法度だったようです。輸送中に襲撃されることを恐れてのようですが、最近は出版社の自主規制?も緩くなったようですね。大体、この車輌は隅田川駅(=南千住駅の横)の入り口の近くに常駐していて誰でも見ることが出来ますから、出版社が自主規制した処で何の意味もありません。それよりも、現金輸送車を襲撃するのが目的だったら銀行回りしている自動車を襲撃した方が余程簡単です。差し障りがありそうなのでこれ以上は書きませんけど、、、。
それは兎も角、以前のマニ30(前期車)は43系客車のような外観でしたが、これらは既に廃車になっていて、こちらの現存するマニ30(後期車)は50系客車のような外観になっています。右の写真は窓無しの非貫通側ですが、貫通側は通路の両側に窓があるので、オハフ50のような外観をしています。
上の写真の車輌はヤ250型ヤ250、1983年(昭和58年)頃、塩浜操車場(しおはまそうしゃじょう)にて撮影。
塩浜操車場構内のカーリターダシステムの設置工事の建設用車輌です。一種の工事機械に近い車輌ですね。デリックカーと言うか、その種の車輌です。後述のコヤ90も同様ですが、用途が限定されている上に工事・搬入が済んでしまえば用はなくなるわけで、生い立ちからしてなんとなく哀れなものを感じさせます。上の写真は哀れな者同士と言うか、コヤ90と一緒に並べて塩浜操車場西側の留置線に置いてあったものを撮影したものです。右端にちょっとだけ見えているのがコヤ90の車体の一部です。
ヤ250の台車の写真です。工事用車輌にしては随分新しそうな台車を履いています。何らかの試作車から転用したのかも。
上の写真の車輌はヤ567、1982年(昭和57年)12月、拝島(はいじま)駅にて撮影。
除草薬散布車で、トキ25000からの改造車です。運転操作用の機器は取り付けられていないと思うのですが、作業用の機関車や軌道モーターカーなどに推進されて先頭に立つ必要があるからなのか、前後共に2つ目玉のヘッドライト付きの面白い車輌です。
新幹線開業以前に在来線を利用して新幹線の車体を運ぶ際の建築限界を測定するための車輌で、記号の上では一応は客車扱いです。オロ31と言う半鋼製17m級客車の車体を撤去して改造した車輌です。車体に相当する部分は鉄骨?だけですから徹底的に軽く、客車の重量区分としては最低区分の「コ」となっています。
この車輌で傑作なのは、普通は車輌の最大長は連結器間で測るわけですが、車体が外側にオフセットしている為に普通の車輌とは違って車体長よりも最大長の方が短くなっています。従ってこの車輌は直接に機関車やらを連結する事は出来ず、必ず中間に控え車を連結しなければなりません。控え車と言っても後述のヒ600のような高級?な控え車ではダメで、単に床が平べったいだけのチ、チキ、のような車輌でなければダメ、車端部に手摺りがあってもダメ、とまぁ、面倒なこと、この上ありません。
Class HI-600 transfer caboose.
上の写真の車輌はヒ600型ヒ724、2000年(平成12年)7月、日本貨物鉄道隅田川(すみだがわ)駅にて撮影。
控え車です、と書いても漠然としていますが、列車と機関車の間に連結して要員を乗せたりする車輌で、営業用の貨車ではなく、あくまでも事業用の車輌です。車体が大幅に台枠からはみ出している操重車(そうじゅうしゃ)や、上述のコヤ90のような車輌に随伴する控え車はホントにまっ平らなだけのフラットカーでなければ使い物になりませんが、このヒ600の場合は入換要員氏が添乗するための客車的用途の貨車?なのでご覧の通り屋根付きです。
上の写真のヒ724は南千住駅の直ぐ隣に在るJR貨物の隅田川貨物駅でDE11だったかと一緒に走り回っていた処を撮影したものです。この写真を撮影した時点では入換要員氏が右側の機関車のデッキに乗っていたので無人状態ですが、通常はヒの方に4名とか5名とか乗り込んでいます。アメリカ流に言えばトランスファーカブースですが、ヒの方がもうちょっとささやかな車輌です。ご覧の通り屋根があるだけなので、雨は凌ぐことが出来ても、風は凌ぐことが出来ません。
上の写真の車輌もヒ600型ヒ724、2000年(平成12年)7月、日本貨物鉄道隅田川(すみだがわ)駅にて撮影。
ソ300は橋桁架設用操重車、、、要するに建設機械の一種でして、簡単に言えばクレーン車です。「それならば救援車としても使えるんじゃないか」と言うとその通りだと思うのですが揚荷能力は35tでしかありませんので、軽めの車輌でなければ吊り上げることは出来ません。機関車は全く話にならず、電動車は無理、クハ・サハ程度の車輌ならばどうにか吊り上げることはできます。実際にはそんな使われ方をしたことは無いと思いますけど。
このコンテンツに記載した車輌の中ではヤ250と共に、貨車として扱われる車輌ではあっても貨物輸送とは無関係です。いわゆる車掌車も貨車でありながら貨物を運ばない車輌ではあるんですが、それ以上に輸送業務そのものとは縁遠い車輌です。国鉄時代の1966年(昭和41年)に2輌製造されて、2輌ともJR東日本に継承されます。自重は150tを突破しており、4軸ボギー台車2組をスパンボルスターで連結して使用しており、合計16軸の巨大な車輌です。
この車輌は貨車扱いではあっても自走用のエンジンを持っていて20km/h程度で走ることができますから実態はキヤ、キソ?ですね。この車輌を動力車扱いすれば、恐らくは日本の鉄道の中では最も車軸数の多い動力車になると思われます。
ソ300の台車の写真です。此処に写っているのは4軸分だけですので全体の1/4でしかありません。上述の通りソ300は16軸車ですから、なんとも巨大な車輌です。
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